西田幾多郎の宗教哲学②ネルケ無方様(安泰寺)「why(なぜ生きるか,生きる意味)を徹底してこそのhow(いかに生きるか)」
西田幾多郎の記事に、安泰寺のご住職、ネルケ無方さまからご感想のメールを頂きました。 御本人からブログに転載しても構わないとの許可を頂きましたのでシェアさせていただきます。 ネルケ無方さんは、ドイツ生まれのご住職さんです。…
2019.03.16 ばさばさ
西田幾多郎の記事に、安泰寺のご住職、ネルケ無方さまからご感想のメールを頂きました。 御本人からブログに転載しても構わないとの許可を頂きましたのでシェアさせていただきます。 ネルケ無方さんは、ドイツ生まれのご住職さんです。…
2019.02.01 ばさばさ
自己の愚と矛盾とを知りつつも自分では何もできない。だから神・仏の中に自己を投げ出し、棄て去る 西田幾多郎、晩年の論文「場所的論理と宗教的世界観」は彼の宗教に対する考え方を、他の著作の何倍もわかりやすく描いています。(西田…
義父の要請で
国際電話をかけさせられ、
電話先でもたらい回しにされまくり,
1時間半、録音とGoogle翻訳を使いながらなんとか任務完了。
めっちゃ疲れた。。。
面倒臭い客だと思われて、
途中で担当者が5回くらい代わり、何度も初めから説明、…
クレルヴォーのベルナルドゥスの
この記述に、昔、感動したのだった。
「自由意志こそ救われるもの」である。
これは、実存の1つの表現に感じられる。
また、西田幾多郎の場所的な自己とも共鳴する気がする。
新しい福音理解から、もう一度読み直してみたい。
「あなたは『自由意思はいったい何をするのか」と問う。
手短にこう答えよう。
自由意思こそ救われるものである。
人間から自由意思を取り去るならば、救われるものがなくなる。
恩恵を取り去るならば、救いの起源がなくなる。
救いの業は2つの要素、つまりこの業の起源と、
RT @Mi_Athanasios: 竪琴音色キリスト教会における信仰観が非常に読みやすくまとめられています
神学的には「ピスティス論争」の範疇ですから、特に聖書協会共同訳によって明確に訳出されています(=キリストの真実)
言うまでもなく、キリストに対する信仰の段階を否定し…
RT @Mi_Athanasios: カトリックのマリア論において「無原罪の御宿り」がある
これはお告げにおけるマリアの場面を思い起こさせる
"マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼…
「我らはここに、カトリックの信仰とプロテスタンチズムとの分岐点を見出す。後者はキリストと我等との関係をただ不可視的、個別的交渉に限らんとし、前者はこの霊的事実が全人類を有機的に団結する可視的、世界的大教会として時空の間に発現する、と主張する。」
「キリストは可視的の道を通じて
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