エックハルトに叱ってもらう。すべての内に神をみるべきこと。

注意
こちらの記事には、キリスト教信仰の核である「三位一体の神」や「唯一神」をあやふやにするような内容が書かれているので、キリスト者の方はご注意ください。
当ブログは「キリスト教信仰」よりも広い読者を想定しております。
「キリスト教信仰」からは異端的であるとしても、一人の宗教家の言葉として学ぶべき価値はあると思いますので、記事は残しています。
「閲覧者」さんからありがたいコメントをいただき、この注意書きをつけることができました。ありがとうございます。そちらのコメントもご覧いただければと思います。

さぁさぁみなさん!なんて辛気臭い顔してるんですか!
いったい、いったい、一体全体、こいつは何て有様でしょう!なんたる無様さ!人間たちは!
全く、まったく!じめじめじめじめくされきったナメクジどもです!あんたらは!
世界ぜんたい、とんでもなく豊かで豊かで無限なごちそうが目の前にあるというのに!
一体何で、この食い物を批評し始めるのか!これは食い物なんですぜ!この世で無上のごちそうを前に!善悪是非も勧善懲悪も全くありっこない!ありえない!
だってこのご馳走のシェフは!神さまなんだい!神さまのオゴリなんだい!!
食っちまえ!食っちまえ!食わないならそのご馳走を俺によこせ!あなた方だってそう言うでしょう!
ほっぺたが落ちるほどうまいご馳走を前に、「でもでもでも…」とごねにごねる紳士がいたならば!神さまにだって、失礼じゃないか!
ええい!御託はもう良い!読みましょう!我らがわれらがマイスター!エックハルトさんのお言葉を!

何かをこうむったり何か為さなければならないことが起こったりした場合に、
「これが神の意志だということがわかっていれば、喜んで悩み、喜んで為すのだが」
と言う人たちが多い。
これは如何に!
病気の人が、自分が病気であるのは神の意志であるかどうかを問うとは、まことに不思議な問である。病気であるならば、それが神の意志であることは確かであると知るべきである。

他の全てのことについても同じである。

それ故に人は、彼に起こることは何であってもすべて、単純に純一にそれを神から受けとらなければならない
内的外的に順調に行く場合には、神を讃め神を信頼する人たちが多い。
「今年はこんなに沢山麦も獲れたし、ぶどう酒も出来ました。神さまを信頼します」
と言う人たちのように。
「まことに然り」、と私は言う、「お前は確かに全幅の信頼を寄せている――麦とぶどう酒に」。   [1]

言われちゃっていますぜ!!
我々が神を、引いては真理そのものを、どれだけせまっちい場所に押し込めているか!
お前が信じているのは天地の創造主たる神ではなく、麦とぶどう酒の神にすぎないってね!
病気になって「こいつは一体神の意志なりや否や??」だなんて、あんたの神はどれだけちっぽけか!なんて「部分的」な神なのだ!それは「健康を維持する神」に過ぎない!
そんな根性ならお医者さん、医学を神さまに見立てて信じたほうが良いぞ!

「他の全てのことについても同じである」!この一文だ!
ああそうだ全てのことだ!病気だろうが姦通だろうが殺人だろうが、なんでもござれ!
あんたの身に起こるありとあらゆること!あんたが天に召されるまで気づくことすらないことであっても!すべては神の御業である!
あんたはそいつを単純に!神から受け取るんだ!いやはや!とんでもないこった!

お前は神をつかまえてその頭にマントを巻き付けベンチの下に押し込むようなことをしているのである
何故ならば、神を何か或るきまった仕方で求める者は、彼がつかまえるのはその仕方であって、それによって、その仕方の中に隠れ給う神を逸してしまうからである。
それに反して、一切の仕方なしに神を求めるものは、神を神御自身のままに把えるのである。
そして、このような人こそ御子と共に生きるのであり、生そのものである。[2]

エックハルトさん!ジョークがピリッと効いてるぜ!
そうだそうだまさにそうだ!
この世界はすべて神さまそのものなんだから、「仕方」なんてなんにも要らないんじゃい!
神は無限にして絶対にしてかつ、有限にして相対たる被造物にて在す!
だから一切の仕方なしに神を求めるものこそが!神を神御自身のままに捉えるんだい!
この世に神ならざるものは無し!
なんてなんてなんてなんて!なんて偉大な神!あなたはどんな言葉をも撥ね返す、無敵鉄壁完璧の神にてあられる!アレルヤ!唯一の真の神!すべての民、万物の主なる神!

人は決して考えられた神に満足すべきではない。
考えが消えると、神もまた消えるからである。
われわれは被造物や人間の考えを遥かに超えた実在する神を有たなければならない
そのように神を有つ人こそ、神を神として受け取る人である。
その人には神があらゆるものにおいて輝き給うのである。[3]

考えられた神!
限界限界限界限界、四方を限界に囲まれた人間の、限界そのものでしかない言葉によって考えられた限界神!そんなものは神じゃねぇ!
「あれは神さまの御旨だったかしら?」なんて上品に首をかしげてみたあなたさま!あなたはそう言った次の瞬間!もう神さまを喪っているでしょう!
だって、考えられた神はあなたがそう考えている、その間だけしかいない、なんともしょぼっちい神さまですから!あんたはすぐに忘れてる!なぜならそれは神さまじゃないから!
神さまは、いつでもどこにでも居る!「いない」なんてところはありえないんだから、「いるいないを超えて」いる!
だから忘れられる神なんて神じゃない!それはただの思いつき、雑念のひとつにすぎねぇだべさ!
さぁ!そのマントをめくってみろ!そこには な に も な い!神さまだ!
どこにもいないからこそ、どこにでもいるんだ!ヤッタネ!

例えばこういうことを言う人たちがいる、
「もし私が、どこそこに居ることができないならば、そしてかくかくのことをすることが出来ないならば
私は決して正しい生活に入ることが出来ないであろう。
私は家を出て隠者になるか、修道院に入らなければならない」と。
そのように言う時、実は、そこに満ちているものはお前の我であり、それ以外の何物でもない。(中略)
これを逃れあれを求めなければならないと言う時――そのこれとかあれとかは場所であったりであったり仕方であったり数量であったりまた仕事であったりするが――
その時、この仕方が、或いはこれらの事物がお前を礙げるというところに罪があるのではない。
そうではなくて、お前を礙げているのは
むしろそれらの事物におけるお前自身なのである。[4]

あれとか、これとかにこだわるのは、あんたの我意過ぎないってこった!
神はそんな一切のことにこだわらない!あんたの身にふりかかるありとあらゆることの内に神をみなくてはだめなんだ!見れるはず!見るべきなのだ!

神さまは教会の中とか、善行の中とか、清い生活の中とか、そんなもんに限定されはしない!どこにも、何の行いにも、どんな形式的なことの内にも、限定されはしない!
そんな「部分的」なもんに慰めを求める限り、「部分的」な神さましか信仰できない!
そして「部分的」な神さまは、本当の意味での神さまじゃねぇ!
うんうん!そうだ!えーと!ああ!どうなんだろう!!

ん…!いや…!もしかして!

神さまは一切でありつつも同時に、「部分的」なる神にまで降って、人間を「部分的」な形でさえも、慰め給うのではないか!

本当のカミサマ、全体的なる神サマって、なんだ!?
ありゃ!アリャ!!アリャリャー!!?

そうだとしたら…そいつは…そいつはまた、もっとすげぇ神さまだ!偉大過ぎる!

あぁ!わかったぞ、おれたちのちっぽけな脳ミソで何を考えたって、駄目なんだ!!ただ神さまの偉大さを前に、ひざまずくしかないんじゃ!!
エックハルトさん!混乱させおって!
でもあんたのおかげで、神さまのすごさを思い知ったよ!まじ卍ってやつだね!曰く、言葉にならぬ!

俺たちゃあもう!信仰について云々するのは辞めようじゃないか!
おのおのその人が、その都度のやりかたで、かみさまと関わる!それで良い、それしかないのだ!
むしろ!そんな自由のうちにおいて無限無相に働き給う神こそが、偉大なんだ!
エックハルトさん!やっぱりすごいや!
神さまはどこにだっている!どんな信仰のなかにだって!
否!どんな不信仰のなかにだって!いらっしゃる!
だったら俺たちゃ、細かいことは気にせずにガンガンずんずん生きようじゃねぇか!
キリストに賛美!

もし画家が最初の一筆の際に先々の筆致を全て考えようとするならば、何も描けないであろう。
もし誰かが町に行こうとして、まず如何に第一歩を踏み出すべきか考えようとするならば、やはり出かけることが出来ないであろう。
それ故に、最初の導きに従って歩みだし、そして先に歩みつづけなければならない。
そうすれば、行くべきところに至るのであり、それで正しいのである。[1]

[1]『エックハルト』上田閑照編訳,講談社学術文庫「DWⅢ説教62、Q説教48」
[2](同書,DWⅠ説教5のb、Q説教6)
[3](同書,「教導講話」200ページ以下)
[4](同書,「教導説話」191ページ以下)

引用は全て上田閑照の『エックハルト』からです。半分以上は上田のエックハルト評論で、残りで上田閑照が選んだ説教、講話などがアンソロジーになっています。少し手に入りづらいので、以下の2冊もおすすめです。
岩波の『エックハルト説教集』は、説教集で、本ブログの[1],[2]の引用もあります。
講談社学術文庫の『神の慰めの書』には、教導説話と、説教と、「神の慰めの書」などが入っています。一冊だけ買うなら、手に入りやすいこの一冊がおすすめかなと思います。

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2 件のコメント

  • >俺たちゃあもう!信仰について云々するのは辞めようじゃないか!
    おのおのその人が、その都度のやりかたで、かみさまと関わる!それで良い、それしかないのだ!
    むしろ!そんな自由のうちにおいて無限無相に働き給う神こそが、偉大なんだ!
    エックハルトさん!やっぱりすごいや!
    神さまはどこにだっている!どんな信仰のなかにだって!
    否!どんな不信仰のなかにだって!いらっしゃる!
    だったら俺たちゃ、細かいことは気にせずにガンガンずんずん生きようじゃねぇか!
    キリストに賛美!
    ・・・最後に「キリストに賛美!」などと言ってますが、「てにをは」からしてまちがい。「キリストに乾杯!」でもあるまいし、「キリストを(介して神を)賛美」するのが聖書的信仰でありキリスト教です。そしてサイトの題の方では「一人ひとりのイエス様との関わりが全て」とかことわっておられますが、聖書は父と子と聖霊という点で信仰の対象は「イエス様」だけではないから、神様との関わりと言うべきでしょう。どうも日本人にはキリスト教というとイエス様との関係だけの…ワンネスというかジーザス・オンリーというか…、ネメシェギ神父が指摘しておられるのとは別の意味で唯位神論的傾向を感じます。ところでマイスター・エックハルトという人は神秘主義の異端者です。すなわち啓示ということをよく知らなかった、重視しなかった人です。「すべてのうちに神をみる」というのは汎神論になります。そのような考え方だと、たとえば無宗教の宗教学者が「神とはそれぞれの人間が勝手にでっちあげるイメージです。それだったらむしろ、神なんぞ存在しないと言い切る方がクリスチャンらしいじゃないですか。」(『はじめて読む聖書』新潮新書 p107)などと、神を冒瀆しクリスチャンを侮辱するようなことを言っている、そんな言葉に感化されかねません。そういった神を畏れない思い上がった知者の屁理屈なんかにだまされかねません。聖書は神を啓示する書です。神はキリストの父として御自身を啓示された。だから聖書の信仰、キリスト教の福音主義信仰には秩序があります。なんでもありってことではない!こうしてweb上で放置されているんだから、注意しておかないといけないと思ったしだいです。下記引用は、聖書教徒なら銘記して然りです。
    「 新旧約合わせて六十六巻よりなる聖書は第一に、その中心として何を与えようとするか。聖書において我らは何を一番期待すべきであるか。曰く、神。天地の創造主にして、全能なる活ける真の神、主イエス・キリストの聖なる父。これこそ聖書の中心題目であり、これを無視して聖書はまったく意味をなさぬ。かかる神は他の宗教の経典にも自然界にも、自我のうちにも、文学にも哲学にも倫理学にも、どこにもこれを見出すことはできないのである。(中略)聖書の主人公は神であるといったが、その意味は、聖書が、神に関する観念を与えるということでない、聖書が我らに霊的道徳的理想として、神を知らしめるということでもない。聖書は神に関して我らに教える書でなく、活ける神そのものに直面せしめ、その実在にまのあたりふれしめる書である。(中略)聖書において我らに迫り来る神は、絶対他者としての活ける神、我らの罪をさばくことによって、これを赦したもう聖なる父である。聖書は神に関する真理を観照せしめるよりも、むしろ活ける贖いの神そのものを罪ある我らに経験せしめるものである。聖書において真に神を知るとは、罪赦されて、神との交わりにはいることにほかならない。かかる意味で聖書は神の言葉である。聖書においてのみ我ら罪人は無比なる神の活ける言葉をきき得るのである。聖書が我らプロテスタントの信仰にとって、究極の権威であり得るのは、聖書をほかにして、活ける真の神を与えるものはないからである。」(高倉徳太郎著『福音的基督教』)

    • 閲覧者さん
      素晴らしいご指摘とご説明を、ありがとうございます。
      私自身も、今は三位一体の神を信じております。しかし、この記事を書いた頃は全然わかっておりませんでした。
      閲覧者さんのおっしゃることにはほとんど同意いたします。
      (ちなみに、カトリック教会としてはエックハルトに異端の結論は下されておらず、教皇ヨハネ・パウロ2世と教皇フランシスコが肯定的にエックハルトを引用しています。)

      ただ、こちらのブログは、キリスト教信仰に限定して発信しているブログではありません。
      私にとって、マイスター・エックハルトは、京都学派の宗教哲学が評価する、一人の宗教家としても価値があると思っています。
      キリスト教信仰という枠組みを超えて、「汎神論についての記事」としての価値もあるかと思いますので、但し書きを加えた上で、本文は残させていただきます。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    30代。妻・娘と3人暮らし。早稲田大学卒。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。