「貧しい者は不幸である」この現実と命がけで戦い抜いた先にのみ、「貧しくとも幸せ」という真理が拓ける。
ずいぶん前の話ですが、田川建三の宗教批判を紹介する「人は食って寝るために生きる」という記事を書きました。
その記事では、「食って寝るために生きる」という人間の一番大切で、基礎的で、根本的なことを軽視したり、バカにしたりする人々に対するまっとうな批判を紹介しました。
生きる意味や目的を何よりも重視する人々がいます。ときに彼らは、「生きる意味を求めない人々」を見下したり、日銭のために働く人々は「わかっていない」なんて言ったりします。(僕もそう考えたり、行ったりしたこともたくさんあります。)
しかし、「生きる意味・目的」がどうのこうのと言う悩みはいわば「ぜいたく」なことで、衣食住に満ち足りていてはじめて問うことができるものです。
だから人はまず、「食って寝るために、そしてその銭を稼ぐために生きる」。
それから、一つの「ぜいたく」として「生きる意味」とやらの問いを始めるのです。「衣食住」という人間の基礎部分を無視して、「生きる意味」なんぞを第一と考えるのは馬鹿であり、そう教えるやつらは思想的な収奪を行っている、と。
彼らは自分たちの「恵まれた」環境を忘れて、自分たちは社会的な地位も富もある、安全な位置だからそう「きれいごと」言えているに過ぎない。田川建三は厳しく問い詰めます。
「食って寝るために生きる」たしかにそうだ、一番大事なことだ。でも、それだけじゃないはず…。この問いにはっきりと僕自身の立場を打ち出したいです。
そのため、もう一回、田川建三の宗教批判的言説を取り上げてみます。
貧困から来る不安を取り除くのは「信仰」ではなく、金だ。
生きることは不安だ、その不安をどうしたら取り除けるのだろう、とぼくはいつも考えます。この問いは過去も未来も忘れて、この毎日の現実生活に死力を尽くして生きていくにはどうしたらよいのか、という問いに進みます(ぼくにとっては)。
目の前にあるこの現実、存在そのものに感謝して、喜びに満たされて生きていればよいはずなのに、ぼくは「感謝」の代わりに「不安」をおいて、必要のないことに焦り始めます。
不安こそが、ぼくを「目の前にいる人々に日々尽くす」ことをさせずに、「自分の地位と名誉と富とを守るための思い煩い」に駆り立てて、このみじめな自己防衛に必要以上に執着させるのです。そして更に不安になって、周りの人を傷つけて…と、このあたりの流れは、「人はなぜ宗教を求めるのか」をぼくなりに書いた記事をご参照下さい。
さて、では、田川建三は不安をどのように捉えているでしょうか。「貧しいものは幸いである」というマタイ福音書の山上の説教を批判する文脈のなかで次のように語っています。
貧困は不安の基礎である。明日の食いぶちが確かでないという直接的な不安と、将来に大きく横たわる未知の不安と。
不安はいけません、なんぞと説教はしないでくれ。
不安は心の持ち方から生れるのではなく、従って、悔い改めようと、信仰を持とうと、心理学者の説教を聞こうと、哲学者のすすめに従って人間の本質的規定なるものに悟りをひらこうと、不安が消えるものではない。
それで消えるぐらいの不安なら、不安ではない。不安は生活の貧困から来る。生活の貧困は生活の貧困をなくすことによってしかなくならない。
だから、貧しい者は幸い、などというのは嘘だ。
嘘は嘘なので、イエスが言おうと、誰が言おうと、嘘には違いがない。山上の説教の註解は、嘘を嘘としてはっきり認めるまっとうな感覚からのみ出発する。[1]
「貧しいものは幸い」この言葉はキリスト教的な倫理・幸福観を代表するものとして、かなり安易に持ち出されることがあります。
しかし、ふざけんな!と田川は言います。貧困から来るほんとの不安は、そんなお説教じゃ解決しねぇ、と。信仰でも哲学でも悟りでも、そんなことで消える不安は、不安なんかじゃない。「貧しいものは、不幸だ!」嘘をついてはいけません。
田川にとって「不安」とは、貧困から来るものであり、貧困を解決することによって対処されるべきものなのです。ここにこそ、多くの宗教的人間が忘れがちな視点があります。「生きる意味」がぜいたくな悩みである理由があります。みんな、自分が豊かであることを忘れちゃっているのです。慣れてしまっているのです。
「貧しい人や不幸な人たちとは、此の世からは何も期待しえないで、神にすべてを期待し、神に信頼している人たちである」(G・ボルンカム)
お前なあ、貧しくて、明日食べるパンもないときに、もはや此の世から何も期待することができないとなったら、人間がどういうことになるのか、一度でも考えたことがあるのか!
これじゃ、貧乏人よ、あなた達は此の世ではどうせ駄目なんだから、教会にでも行っておとなしくお祈りしていろよ、と言っているに等しい。[1]
聖書学者の注釈にまっとうに怒ってみせます。このあたりは、コンゴ共和国の大学で教えていた時、衣食住もままならぬ現実の貧困を目にしていた彼だからこその、有り難い視点だと思います。
不安を取り除きたい人に必要なのは、お説教でも、安全な立場からの同情でもなく、明日食べるパンであり、銭を稼ぐための職である。なるほどこれは、現代日本の人々の大多数の意見と言えるでしょう。
この「常識」的な視点を忘れてただ「貧しいものは幸い」と言うのは、ただの偽善であり、貧困にあえぐ人々に、その「有り難い」現状を受け入れろ、と言っているようなものです。
現実の貧困の中で苦しむ人々を忘れて、物質的には豊かだけれども、俺たちには俺たちの「精神的・高貴な悩み」があるのだ!と言ってしまったとき、彼らを自分たちとは違うものとして切り捨ててしまっているのだと思います。
「貧しいものは幸い」とは、貧しい=不幸に風穴を開ける努力の末にあるもの
では、貧しい人のなかに「幸いな人」はゼロなのか、田川もそうは言いません。ある面においては「貧しいけれど幸いである」ということも一つの真理たりえます。
だから、貧しい者は幸い、という認識が嘘だ、という判断と、それが一つの真理であるという判断とは、両方ともに成り立つ。
ただし、その2つの判断の立つ地平は異なる。前者の判断はまぎれもない事実に立脚している。後者の判断は、そのまぎれもない事実になんとか風穴をあけようとしてきた多くの貧しい人々の、肉体をすりへらした努力が切り開いた展望に依拠している。
前者は客観的な真理である。存在する現実に規定される。後者は存在する現実に抗う人間の貴重な意欲によってしか支えられない。
だから、貧しい者は幸い、というもの言いが真理であるとするならば、それは逆説的な真理としてしかありえない。逆説的であるということは、貧しいものは決して幸いではない、という事実に対して挑戦的に抗おうとする、ということなのだ。[1]
「貧しい者は幸い」とは、「貧しいものは不幸である」という重たい現実に風穴を開けようと、挑戦的に抗われたところで始めて成り立つものです。つまり初めは、当然「貧しいものは不幸」です。それが常識であり、事実です。
しかし、この現実に対して、いや!そうじゃない、貧しくとも、不安もなく、生きることはできるはずだ!と、肉体をすり減らしつつ、努力して切り開いた先に初めて「貧しいものは幸いである」という展望が開けてくるのである、と。(こうした立場の上に、逆説的反抗者としての田川のイエス観があります。『イエスという男』参照。)
貧しさという現実に抗う人間の貴重な意欲によって支えられるのが、「貧しいものは幸いである」という言葉なのであり、自分は安全なところにいる豊かな学者、説教者、先生とやらが上から発言できるものではない。肉体をすり減らさない者が言ったとき、この言葉は偽善であり、現実の抑圧を肯定することにしかならないのです。
現実の貧しさに身も心もすり減らしている人に対して、「神を信じれば救われます」そんなことを言ってはいけないのです。そんなことよりもその貧しさからくる負担を少しでもやわらげて、お金と時間の余裕を支えることに力を尽くすべきです。
宗教・信仰の「非」絶対性。バランス感覚
田川の宗教批判から学ぶことができるのは、宗教・信仰・精神性によって物事を全部解決できると考えてはいけないということだと思います。
人類の歴史の中で、宗教に身を捧げて殉教をした人がいます。貧困の中でも信仰によってこの上ない幸せを覚えつつ生きた人もいます。
しかし、この「偉大な」人たち、「偉大な」世界を当然の常識だと考えてしまい、それを現実に貧困に苦しむ人たちに押し付けてはいけません。田川の宗教批判から学ぶことができるのは、このバランス感覚です。
「信仰さえあればお金なんて要らない。すべてを神にお任せして、死ぬべきときには喜んで死にます!」そう考えて生きても当然良いのですが(ぼくも憧れますが)、だからといって、それを人に求めるのは、間違いとはいえませんが、やっぱりおかしいことだと思うのです。そんなことで「そうですか!信じます!」なんて納得する人は、ぼくの身の回りにはゼロです。そんなことしても、隣人愛なんかにはならないでしょう。ただの独りよがり、神よがり、信仰よがり、だと思います。⇩この記事では富と神との関係について、信仰の立場から触れています。
人を愛し、人のためになろうとするならば、まず相手がどう考え、どう感じているかを知り、理解しようとしなければ何もできないです。
「あなたたちは他人からしてほしいと思うことをそのまま他人に行え」(ルカによる福音書6:31,バルバロ訳)とあります。
人は誰しも、自分の立場に近づいて、よりそって、自分と一緒の立場から一緒に考えてくれる人を求めています。自分の立場を語るだけの偉そうな説教は誰にだってできるし、誰だって気持ちが良いものです。しかしそんなことを求めているのは空想上の、頭の中のあなたのファンだけです。
愛するべき隣人は、この現実の中にこそいるのであり、現実の中で苦しんでいるはずです。だからこの現実を全く無視して、宗教的な考え方を押し付けるのは、ただのいじめです。(具体的にはいろいろな関わり方が可能だけれども。)
(キリスト教の論理からすれば、全能永遠である神が無限にへりくだって、ただを人間を愛するがゆえに、イエス・キリストとして人の身をとったではありませんか!人間に寄り添うために、神の座から降りてきたのです。)
貧しいものは幸いだ、とイエスが言ったのは、私たちの知っている貧困を言ってるのではないですよ。
霊において、本当に自分を満たすものを持っておらず、それを求め飢えた乞食のような人のことを言っています。
解釈が違います。
コメントありがとうございます。
解釈のちがいということ、理解できます。ぼく自身も、
フランシスコ会訳の「自分の貧しさを知るものは幸い」という言葉を大切にしています。
新約聖書学者の田川建三さんは、聖書を「人の書いたただの書物」と捉えつつ、
「人間イエスは本当は何を言ったのか」を重視して聖書を解釈します。
ここの解釈でも、「霊において貧しい者」と訳せる部分の「霊において」の部分は後代の書き入れであるという根拠から、
人間イエスは別のことが言いたかったのではないかと、言いたいのでしょう。
まさに、聖書を神によって書かれたものか、人間が書いた不完全な書物か、という出発点から、キリスト教とは解釈が違うわけです。
そして宗教批判者としての捉えられた人間イエスの言葉から、自身の宗教批判へとつなげているように思われます。
なので本記事のテーマは聖書の解釈というよりは、田川建三による宗教批判へのなんらかの応答を目指しています。
分かりづらい書き方で申し訳ないです。
お応えになっていれば幸いです。
どうでも解釈できるものに対して、答えが一つしかないという考えが間違っていると思います。
だから宗教戦争が起こるのではないでしょうか。
人の解釈に頼らず、裁かず、
人の解釈によって知識や視野を広げて考えることができれば互い助け合うことが出来ると思います。
もぐもぐさん
コメントありがとうございます。
まさにそうですね。ぼくも同感です。
田川建三さんは「キリスト教的な偽善」(この記事で)に対して強い問題意識を感じておられるようです。
そして、その「キリスト教的な偽善」を、新約聖書学者としての自分なりのイエス解釈によって批判しているのだと思います。
その想いの強さと、物質主義的な感覚から「自分なりのイエス観」を「絶対視」してしまっているように見える面はあるかもしれません。
かつて拙著『資本論と現代』(三・一新書、1970年)で、「マタイ伝」のこのくだりの「貧しい」とは、文字通り「物質的な貧困」を意味するのであって、そのために祭壇に供え物を捧げられないので、神父のいうとおり、自分は「精神的にも貧しい」()the poor in spirit)のだと自虐を強いられている者たちを意味すると指摘しました。宗教界を支配する者が問題の核心ではないでしょうか。方向は、田川健三氏と同じです。(内田弘)
内田弘 さん
コメントありがとうございます!
なるほど…。
物質的な貧困が、精神的な貧困をも意味していた、大切な視点ですね。
物質的にも豊かな人々が、「自分たちは精神的にも豊かなのだ」とおごるような情景が目に浮かんできますし、これは現代も変わらないことなのでしょうね。
「宗教界を支配する者が問題の核心」とは、ありがたいご指摘です。
ぼくは田川建三氏の問題提起を、思想的に捉えすぎている面があるのかもしれないな、と気づきました。
思想、解釈なんてどうでも良くって、そんなことより現実の内で、困っている人々といかに関わるか、ということを考えるべきなんだと思いました。田川建三氏の鋭い指摘を、そうした形で引き継いでいくべきな気がします。
とても参考になりました。ありがとうございます。
またいつでも、コメントを頂けると嬉しいです。酷暑が続きますね。どうぞお身体ご自愛くださいませ。
海野つばさ 合掌