「my読書」ということで、無理に1テーマにまとめることはせずに、読んで感じたことを書き残していきます。
ここのとこ、ぼくが一日一生の基礎を置いているところの、禅の道に動揺をきたすゴタゴタがありました。そのため生の基礎をちょっとしっかり考え直そうと思って、気になっていたアウグスティヌスの『告白』を読み始めています。
(自分の基礎がぐらつくと、自分の生の方針(?)以外のすべてがどうでもよくなってしまいますね。今はただそれだけを考えたい、早く安心したい、それ以外、周りの人たちもどうでもよくなります。)
保坂和志『小説の自由』が読み取る『告白』の「小説的」面白さ。
『告白』に興味をもったのは、保坂和志の『小説の自由』という本がきっかけです。
この本自体、保坂和志が思うままに、体系的にまとめるという「乱暴さ」を避けて書かれたものです。湧き出るままに自由に考えながらも、いつでも「小説とは何か」「小説の面白さとは何か」を考えています。
小説の想像力とは、犯罪者の内面で起こったことを逐一トレースすることではなく、現実から逃避したり息抜きしたりするための空想や妄想でもなく、日常と地続きの思考からは絶対に理解できない断絶や飛躍を持った想像力のことで、それがなければ文学なしに生きる人生が相対化されることはない。(保坂和志『小説の自由』,中公文庫,2010年,12章)
しいて言えばこうした流れの中で、アウグスティヌスの『告白』が、「小説=散文」の一つとして、紹介?考察?されます。保坂にとっての『告白』の面白さは、この本が「日常と地続きの思考からは絶対に理解できない断絶や飛躍」を持っているからです。
ではどんな断絶でしょうか。
アウグスティヌスの思考のありようは、[中略]むしろ、聖書として思考してしまっているよう私には見える。アウグスティヌスは『告白』の前半部を読むかぎり若い内から成績優秀で、星の運行に関する知識も身につけていた。『告白』の第11,12,13巻で彼は「創世記」についていろいろ考えるわけだけれど、考えるときに、それら、若い時期に身につけた知識をいっさい使わず、ひたすら聖書の中の言葉と自分自身の経験という2つだけによって「創世記」を解釈してゆく。
つまり聖書の正しさの根拠を聖書に求めるわけで、そんな方法はむちゃくちゃのよう思えるけど、「聖書だけが真実である」「聖書の言葉はすべて真実である」「聖書の言葉は神の言葉である」という立場に立ったとき、聖書のほかに聖書を解釈する根拠はない!そしてそこにわずかの、取るに足らない、なけなしの自分の経験と思索が付け加えられる」[前提書、13章]
聖書を聖書として思考してしまっている、という形での、日常との断絶です。
小説を読むときは、そこに書いてあることを「真に受けて」読まなくてはならない、と保坂はよく言っています。カフカの「不条理」も、ベケットのゴドーも、解釈をするもんではなく、そのまま丸暗記、呑み込んでしまうべきものであると。
ふつう解釈とは、そこにあるテクストを、テクストの外のもの(「常識」「文学理論」「テーマ」等)を経由して読み込もうとするものでしょう。僕の記事であれば、「ソーニャがラスコーリニコフを責めない」という事実は、「ソーニャはただ、ひとりの人間の苦しみを見ているからだ」と解釈しています。
これは「ソーニャがラスコーリニコフを責めない」という事実に「何か意味・根拠がある」と考えて、勝手にテーマを読み込もうとしているわけです。ソーニャの行為を「その事実のままに」丸呑みしているわけではありません。「何か意味・根拠」を考えることによって、かえってその無限の可能性をもっている「事実」をたった一つの意味に回収・縮小してしまう暴力的な行為でもあるともいえるでしょう。
アウグスティヌスは聖書を聖書によって解釈していると保坂は言います。せっかく自分が身につけた「知識」も「常識」も使わずに、なけなしの自分の経験と思索(手の届く現実はある意味で「聖書と同じレベルの真理」とも考えられるでしょう。)と聖書だけによって、聖書を読んでいるのです。そこに保坂は「小説的」面白さを感じているのでしょう。
アウグスティヌス『告白』、神がそうせしめているから、全ては存在する。
保坂和志のそんな『告白』の紹介を2年くらい前に読んでから気になっていたので、ついに読みました。
あなたなくしては、およそ存在する何ものも存在できないはずですから、存在するものはすべて、あなたをとらえていることになるのでしょうか。そうだとすれば、この私も存在しているのですから、私のうちに来たりたもうたように、どうして願い求める必要がありましょうか。私のうちにましまさぬならば、私は存在しないはずですから。[中略] ですから、神よ、そもそもあなたが私のうちにましまさぬならば、自分は存在しない。絶対に存在しないでしょう。それともむしろ、私があなたのうちにいないならば、自分は存在しないであろうというべきでしょうか。
すべてのものは、あなたから、あなたによって、あなたにおいて存在するのですから。
[アウグスティヌス『告白』第1巻第2章,山田晶訳,中央公論社「世界の名著14」より、昭和43年]
第一巻の冒頭は神を賛美しつつ始まります。
「すべてのものは、あなたから、あなたによって、あなたにおいて存在する」なんと力強い言葉でしょうか!
神は世界を創造しただけではなく、それを今現在も働かしめているのです。そしてその世界の一部が「私」であるのでしょう。
つまり「私」を働かしめているのもまた「神」である。「わたしは神において存在している」。したがって、「私が存在するのは、神が私のうちにましますから」なのです。
なんて絶対的な肯定でしょう!私は存在している事自体において、神を証明し、神を体現しているのです!
私だけでなく万物も、ただ存在しているのではありません。神が存在せしめているのです。万物の内には神がましまして、万物を働かしめているのです。
さて、こんなとんでもない天国、絶対に肯定されるべき神自体としての世界という考え方。頭ではなんとなくわかった気になりますが、それはあくまで抽象的な理論としてわかっただけに過ぎないと言えます。
なぜなら次の文章に衝撃を受けたからです。
神が母親の乳房を通して、私に乳を与えたもう。
さてこの私を、なぐさめにみちた人間の乳がひきうけてくれましたが、その乳房をみたしてくださったのは、母でもなければ乳母でもありません。あなたご自身が私のために、彼女たちを通じて幼児の糧を、あなたの定めに従い、最低の被造物にいたるまでととのえられた富にもとづいて、与えてくださったのです。[中略] じっさい、彼女たちからうけた私にとっての善いことは、彼女たちにとっても善いことでした。しかし、その善いものは彼女たちに由来するものではなくて、彼女たちをとおして来るものでした。
まことに、神よ、すべても善いものは、あなたから来ます。私の救いのすべては、神から来るのです。[前提書、第1巻第6章]
え!うっそぉ!まじか!!です。
アウグスティヌスは自分の幼児時代を、両親からの話や他の幼児を見ることによって推測しています、幼児はもちろんお乳を必要とします。
しかしこのお乳は、女性をとおして神からやってくるものだと言うのです!お乳を与えることは母親や乳母にとっても、赤子にとっても喜びですが、この善い関わりは神が定めたことであり、神の働きなのです。
「神に由来する、神を通して来る、神が定めた、神の働き、神から来る」このあたりは、「日常と地続きの言葉」ではなんとも言い表しようがありません。ぼくにもわかってはいないでしょう。
しかしここには、何か日常と断絶した、アウグスティヌスにとっての「救い」があることは、感じられます。
「神よ、すべても善いものは、あなたから来ます。私の救いのすべては、神から来るのです」
この断言です。アウグスティヌスは聖書によって思考し、聖書によって生きているからこそ、「ただの赤子の乳飲み」すらも、神からの祝福であると捉えるのでしょう。僕が頭でなんとなくわかったのとは、次元が違います。
アウグスティヌスが生きていた世界はどんな世界のなのでしょう。
万物は神が働かしめているが故に、存在している。存在している万物の内には神がいる。
私は神が働かしめているが故に、存在している。存在している私の内には神がいる。
「赤子の乳飲み」に限らず、「すべての善いもの」は神から来ている。乳を与える女性を通して、神が私に働きかけている。
すげぇです。世界中、あますところなく、肯定が溢れ出しているようです。世界が神(の働き)で溢れています。
この世界では、神が万物を通して私に働きかけ、私に与えてくれているのです。
マルティンブーバー、西田幾多郎、ドストエフスキーなども同様のことを言っている箇所は多いと思います。
しかしなぜかぼくは、この『告白』のお乳の話で一段深く腑に落ちました。ありがとうアウグスティヌス。これからも読みます。
アウグスティヌスにとっての「悪」の問題はまだ読解中ですので、世界における「悪」はどうなっているのかは、また次回になりそうです。
「自らが創造した世界」の外に立っている、外部にいる神、とは違う、
「働きとしての神」については、八木誠一さんが書かれています。おすすめしておきます。いつかブログでも取り上げます。
万物を貫き、自己をも貫いているはたきこそを「神」として捉えるのです。ぼくは「この神」なら信じたいです。
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