平気で矛盾する思いを共存させられる人間。カラマーゾフ長男の叫び。
それよりももっと恐ろしいのは、心にすでにソドムの理想を抱く人間が、マドンナの理想をも否定せず、その理想に心を燃やす、それも本当に、清純な青春時代のように、本当に心を燃やすことだ。いや、人間は広いよ、広すぎるくらいだ、俺ならもっと縮めたいね。何がどうなんだか、わかりゃしない。そうなんだよ!理性には恥辱と映るものも、心にはまったくの美と映るんだからな。
(『カラマーゾフの兄弟 上』ドストエフスキー著、原卓也訳、新潮社、昭和53年、p.203、第1部3編3,「熱烈な心の告白―詩によせて」より)
カラマーゾフ兄弟の長男、ドミートリー(ミーチャ)のこの叫びは、人種も時代も超えた人間の本質を言い得ている。
それは「ソドム(情欲その他、動物的欲求)の理想」と「マドンナ(高貴な、精神的欲求)の理想」が同じ一人の人間に内に共存していることだ。
一人の清純なる女性(これもおかしいが)に尽くし身を捧げ尽くしたいと情熱的に思う心の隅に、誰でもいいからヤリたいなとの思いが控えていること。
街中で事故に遭遇し、その人が苦しむ表情を見ることになんとも言えぬ快感を覚えていた人間が、午後にはボランティア活動に勤しみ他者の幸福を祝い支える。
それは一人の人間の心の内に、矛盾し対立しているはずの思いがなんの違和感もなく共存していることだ。
一言で言えば、人間は矛盾を抱えた存在であること。昨日の自分と今日の自分との間の矛盾に、自分が2つの対立する願いを持っていることに、葛藤を感じ、なんとか自分を統一しなくてはいけないと考える人ももちろんいるだろう。
しかし、あえて矛盾を意識しない限り、何の葛藤もなく矛盾を含むことができてしまうことは、人間にとっての事実であると僕は思う。この事実をあまりに拒否し、無視することは、かえって人間を否定、自己を否定することになると思う。私たちは、絶対に純粋で絶対に清らかな天使ではないことにこそ、意味があるのだ。善と悪を両者混在させていることを認めそこから出発することにこそ、人間の営為がある。
心には矛盾を抱えるが、行為には矛盾を出さないこと。
人間は平気で矛盾した思い、願い、希望、欲望を両立させることができる。次から次へと矛盾することを考えては、そのときに考えていることを行動に移してゆく。清い心で一人のマドンナに尽くし愛された後、性欲を感じ街に女を買いに行く。
その一方で、人は純粋性に憧れる。
ただひたすらに一つの理想にのみ突き進む人間、どんなときでも、どんな相手に対しても慈悲の心から行為する人間。そうした人間に憧れつつも、それとは矛盾する思いを自分の内に発見してげんなりすることもある。
「俺にはなんでこんなに汚い、汚れた心があるのだ!こんなに理想への情熱を燃やしているのに!」
そんな呪いの言葉も吐きたくなる。しかし人間は、矛盾を平気で抱えることのできる人間だ。だから、自分が純粋なひとつの思いだけを持たず、矛盾する思いを浮かべてしまうことを嘆くのは間違っている。大切なのは矛盾する思いを抱えつつも、行動においては一方を奨励し、他方を退けることだ。
マザー・テレサでも、ガンジーでも良い。彼らも心には矛盾する思いを抱えていたに違いないと僕は思う。もしかしたら、ひたすらの善行を続けることによって思いも純粋なものに統一される境地があるのかもしれないが、始めからそうであったとは思わない。
始めから矛盾を抱えていない者は、もはや人間ではないと思う。
矛盾する思いを抱えながらも、それに耐え、行動においてはより自分にとって大きな理想であるものを実現化していく、それが人間としての努力であると、僕は思う。
どこまでも堕落しうるのに、堕落を退け(続け)ることにこそ、人間の偉大さがあるのだ。
(とはいえ、ここで堕落を1ミリも許さないという生き方に、僕は息苦しさを感じる。それは自分が純粋でありたいという極端なプライドに突き動かされている面があるのではないか。むしろそれだけ極端に人間の悪い面を排斥することで、悪からの大きな反動があるのではないか。
あまりのつらさに、生きていけなくなってしまうのではないか、そんな危険を感じる。
それは甘い考えと思われるのかもしれないが。)
この方向に現代のキリストを描こうとしたのが、カラマーゾフ三男、アリョーシャではないか。彼はみんなに好かれる聖なる好青年であるが、情欲に囚われそうにもなるし、師の死によりまったく絶望し堕落しかける。非常に人間的な!それでいて高貴なる人間なのである!
『カラマーゾフ』初見者です。読み進めている中で以下の言葉が理解できないけれども、感銘を受ける感覚があり、どのように解釈すればいいのか彷徨っていたところ、このサイトに辿り着きました。
「高潔な心と高い知性とを備えた人間がマドンナの理想から出発しながら最後はソドムの理想に堕しちまうことなんだ。それよりももっと恐ろしいのは、心にすでにソドムの理想を抱く人間が、マドンナの理想をも否定せず、その理想に心を燃やすことだ。」
「理性には恥辱と映るものも、心にはまったくの美と映るんだからな。」
この文章を読んで、納得しました。日々、自分自身の行動で説明がつかない無意識な部分があり、人にはとても話せない感情の普遍的な意味を、ドフトエフスキーは巧みに表現していたんだということが分かりました。ありがとうございます。
はじめまして。
コメントありがとうございます。
ここにたどり着いたご縁に感謝です。
ぼくもこのセリフに感激しました。
たしか三島由紀夫も何かの小説の冒頭で引用していたと思います。
悪魔にも、天使にもなり切れないところにこそ、
人間の希望と絶望があるように思います。
自分の内の混沌に驚かされることばかりですが、この混沌をまず認めつつ,生きねば…と思います。
ばさばさ 拝