2022年8月29日~
○3年くらい前の自分は、人と人とが関わることをずっと単純に考えていた。ブログにも載せた詩を書いていた頃、人はそれぞれの孤独の穴ぼこから空を見上げ合い、語り合うことができるし、それは素晴らしいことだと思っていた。堀辰雄の『風立ちぬ』で、2人が八ヶ岳の山嶺を見て溶け合ってしまうように。(これについては↓の記事で書いた)
しかし今は、そうシンプルには考えられない。前回ソーニャの恐ろしさについて書いたこととも共鳴する。
結論を言えば、自分の孤独の穴ぼこから、誰かの孤独の穴ぼこを覗き込むことは、相手の絶対的な自己愛、エゴを目にすることなのだ。穴ぼこの内側から外に向かって声をあげ、静かに語り合うくらいなら良い。しかし、そんな自分の孤独の穴ぼこから這い出して、相手の穴ぼこに顔を突っ込む段になると、まったく話はちがう。暗がりに入るということは、愛と憎しみが渦巻く領域に入ることである。「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている。(ニーチェ)」相手の瞳を覗き込むそのこと自体が、巨大な行為として意味を持ってしまう。お互いに無傷では済まない。
「聖人たち」を除けば、人はぎりぎりのところでは、結局自分を優先させる。自分自身を愛する。相手の穴ぼこの底にそれを見る。自分の穴ぼこに顔を突っ込んできたヤツに、それを見られる。エゴとエゴが出っくわし、互いが互いを自覚する。エゴはエゴを憎まざるを得ない。あるいは、エゴとエゴとを融合させて「一つのエゴ」(それは「愛」や「家庭」の別名なのかもしれぬ)に近づけるか。
「恋の終わり」は、「愛か、憎しみかの始まり」であるかもしれない。
『風立ちぬ』の私は、節子の命が消え去りつつあるからこそ、節子を愛することができたとも言える。「死を想う」ことはエゴの権力をしばしの間弱めることができる。我らが共有する死のつながりによって、エゴの境界線の一端を溶かすのだ。
○「親切」と「自己放棄」の間の巨大な隔たり。
人は日々自己愛の中心に向かって引き寄せられていく。
ドストエフスキー小説は、恋や友情を踏み越えて「愛か憎しみか」の領域に侵入する。そこは魂と魂が直接に触れ合い、傷つけ合う領域だ。だから殺人・自殺が起き、回心が起こる。引き寄せあった2人が遂に衝突し、互いに憎み合い殺し合う。アリョーシャもムイシュキンもラスコーリニコフもソーニャも、「踏み越える人」だ。踏み越えるまで、人はそれに夢を見る。しかし、踏み越えた先にあるのは、おぞましい愛か、おぞましい憎しみがほとんどなのかもしれない。
暗い話になってしまったが、一言触れたように、エゴの支配力を弱めることは不可能ではない。エゴを消滅させることは困難だが、その支配力を弱め、自分自身の憎しみを和らげることは不可能ではない。隣人に「親切する」ことは、不可能ではない。愛は人を救救わないが、親切の手は人をひき上げるかもしれない。
ここでもやはり、「対等であること」が足を引っ張るのだ。対等な関係において、エゴが真横に並んでしまう。蹴落とし合いが始まってしまう。これがエゴの根強いぼく自身の課題である。対等な関係は憎しみと相性が良い。
○あまりにおおげさに書きすぎているかもしれない。
もっと卑近に、職場の人間関係でも様々なことを考えた2年だった。『カラマーゾフ』~の母が言うのと同じく、なぜ毎日顔を合わせる、自分と同じ立場の人間に対しては鬱憤が溜まるのだろう。立場が違えば「親切」は容易い。しかし同じ立場の相手に対しては、表情筋と言葉とが、当てこすりに惹かれていく。
尊敬できる点に目をむけなくてはならない。誰しもを自分より優れていると尊敬すること、それは、対等な関わりから自分が一段下がることである。そう、イエスの言葉も、対等であることを求めてはいないことが多い。むしろ自分自身が一段下がること。「幸いなるかな、心の貧しき者」
しかし、ムイシュキン公爵でさえ、ロゴージンのエゴを溶かすことはできなかった。親切を超えて、憎しみと愛の領域で関わる人間たちについて考えるため、ドストエフスキーを読む必要がある、そんな小説は少ない。「親切」と愛を履き違え、エゴのくさみを抜き切った嘘くさい小説ばかりだ。
しかし、愛と憎しみが入り混じる領域においてこそ、本当の人間の美しさと、醜さと、いやらしさとが、混沌になって渦巻いている。そんな世界の幕が上がることはほとんど稀だが、その時にこそ、本当の人生の時間があるのだから、目を覚ましていなくてはならない。
「対等な人間関係」は安易に理想視されるが、本当にそうなのか?「対等な関係」とは、本来恐ろしい関係である。高低差という緩衝地帯がないのである。それは敬語を使えないということだ。伝達手段としての道具的な敬語を捨てて、生の言葉で語り合わなくてはならない。
○「聖人たち」ほどは行かないにしても、「疎ましい人々」は身近にもいるはずだ。人のために身を削っている人、けっして妥協せずに尽くす人、諦めずに励む人。彼等は疎ましい。自分のみじめさを突きつけるが故に。だから彼等は疎まれる。
ここのところの書かれている内容は、とてもわたしの実感にも近い感じがしています。わたしたちは神から与えられた「地球と言う場所」にいます。この場所はすでに「ひとつ」です。ですから当然我々は「場所とり」をすることになります。人間以外の生物との間にも「場所とり」は発生します。クジラのことを考えても人間全体では「ひとつ」にはなっていません。「肉食」に於いても同じくです。そうした中で「人間同士でも」場所とりはつづいています。それは小さな「世界」に於いても同様なのだと考えます。むしろこういうことではないのですか。「神はこのような生命の競合に於いて」「我々がなにものであるかを」「思考することを望んでいる」。わたしは今、そのように感じています。それぞれの「場所に於いて」我々は自己が何ものであるのかを問われています。「その答え」は出たのでしょうか。 実に現状は「混沌」としています。神からの問いはつづいています。