『ビヂテリアン大祭』は宮沢賢治の数ある作品の中でも一風変わった作品です。
物語らしい物語はなく、普段は肩身の狭い思いをして暮らしているベジタリアン(菜食主義者)たちが、
ベジタリアン大祭というベジタリアンのための宗教行事に集結し、
そこで異教徒(非ベジタリアン)たちと弁論大会を繰り広げるという話です。
とは言えこの作品における弁論には、
感性と知性との対決という、人間の根源的な対立を見て取ることができます。
「人は論理的・理論的な正しさだけにしたがって生きるのではない
こころが正しいと思うことを大切にして生きるべきだ」
という宮沢賢治のメッセージ強くにじみ出ているように思います。
非ベジタリアンたちの「論理的」な菜食主義批判
異教徒(非ベジタリアン)たちは非常に鋭い論理でもって批判をしてきます。
「ビヂテリアンたちは動物が可哀そうだから食べないという。
動物が可哀そうだということがどうしてわかるか。
ただこっちが可哀そうだと思うだけである。全体豚などが死というような高等な観念を持っているものではない。(中略)
自分が死ぬのがいやだから、ほかの動物もみんなそうだろうと思うのだ。
あんまり子供らしい考である。」
私は無理に笑おうと思いましたが何だか笑えませんでした。
(『宮沢賢治全集6』ちくま学芸文庫,1986)
動物は食べられて可哀そうだ、というのは、人間の見方、人間のエゴに過ぎないのではないか。
そんなのは人間の見方であって、動物がほんとうのところはどう思っているのかはわからない。
豚に死ぬのが嫌だなんていう高等な観念はないのだ、と一人の論者は主張します。
これと似た意見に、動物は一種の器械に過ぎないのだから感情なんてない、という意見も出ます。
もうひとつ特に鋭い意見がこれです。
動物と植物との間には確たる境界がない。(中略)それは人間の勝手に設けた分類に過ぎない。
動物がかあいそうならいつの間にか植物もかあいそうになる筈だ。(中略)
偽善と云おうか無智と云おうかとても話にならない。本とうに動物が可あいそうなら植物を食べたり殺したりするのも廃し給え。
動物と植物とを殺すのをやめるためにまず水と食塩だけ呑み給え。(前提書より)
こちらの意見は、植物と動物との境界線自体、なんの根拠もないことを指摘します。
「動物はかわいそうだが、植物はかわいそうじゃない」それも人間の尺度に過ぎないと。
動物がかわいそうというのなら、植物も水の中のバクテリアも食べるな!と彼は主張します。
これらの批判は論理を武器にして行われています。
「あなたたちベジタリアンのやっていることは、論理的に考えたらばちゃんちゃらおかしな話だ。そんなことは辞めて、お肉を食べようじゃないか。」と、こうまとめることができるでしょう。
さて、これらの主張に対して、論理的に反論を行うベジタリアンたちもいます。その一方で、論理ではなく、自分の感性でもって反論をするベジタリアンもいます。
感性的に反論をするベジタリアンたち
植物に対してだってそれをあわれみいたましく思うことは勿論です。(中略)
然しながらこれは牛を殺すのと大へんな距離がある。それは常識でわかります。(中略)
とにかくわれわれは植物を食べるときそんなにひどく煩悶しません。そこはそれ相応にうまくできているのであります。(中略)
とにかく私共が生まれつきバクテリアについては殺すとかかあいそうだとかあんまりひどく考えない。
それでいいのです。又仕方ないのです。
但しこれも人類の文化が進み人間の感情が進んだときどう変るかそれはわかりません。(中略)
これらについてはいくら理論上なんと云われも私たちにそう思えないとお答え致すより仕方ありません。(前提書より)
植物を殺すのと牛を殺すのはぜんぜん違う。それは常識、感性でわかることだ。植物を食べるときは牛肉を食べるときほど煩悶しないし、バクテリアを殺すことをかわいそうだとはあんまり考えない。それでいい、またそれで仕方がない、そこはそれ相応にうまくできている。理論的、論理的に何を云われようと、牛と植物・バクテリアを食べることは決定的に違う。
そう反論します。
論理的な批判に対して、論理ではなく、感性、感情で答えています。
また別の論者は言います。
どうせ何かに殺されるだろうからってこっちが殺してやろうと云う訳には参りません。
人間が魚をとらなければ海が魚で埋まってしまうという勘定さえあるがそんなめのこ勘定で往くもんじゃない。
結局こんな間接のことまで論じていたんじゃきりがない、
ただわれわれはまっすぐにどうもいけないと思うことをしないだけだ。(中略)
極端な例でだけ比較をすればいくらでもこんな変な議論は立つのです。
結局我々はどうしても正しいと思うことをするだけなのだ。[前提書より引用]
「われわれはまっすぐにどうもいけないと思うことをしないだけだ結局我々はどうしても正しいと思うことをするだけなのだ。」
なんと力強い言葉でしょう!
『罪と罰』のラスコーリニコフに聞かせてやりたい言葉です。論理的に間違っているとか、正しいとか、そんなことはどうでもよいのです。
「ただそれではいけないと感じるから、正しいと思うから、その心にしたがって行動をする」というわけです。
論理でなく、こころにしたがって生きることの強さと柔軟さ
「ただそれではいけないと感じるから、正しいと思うから、その心にしたがって行動をする」
これを日常生活において実践することは非常に難しいです。この行為には一体意味があるのかとか、かわいそうなんて感じるのはおかしい、自業自得なんじゃないかとか、生きていくのには人を傷つけることも仕方がないだとか。
私たちは自分の感情を論理や理論の力でいとも簡単に押しつぶしてしまいます。
しかしこのベジタリアンたちは、自分の心を押しつぶしたりはしません。様々な論理ではなく、「かわいそうだ」と思うそのこころ自体を大切にするのです。
バクテリアにそこまでかわいそうだと思わない気持ちは、
「人類の文化が進み人間の感情が進んだときどう変るかそれはわかりません」と彼は言います。論理的・理論的な批判を行い自らの主張を正しさを叫ぶ非ベジタリアンたちとの違いはここにもあります。こころに従って生きるとは、感情がいつでも正しいということを主張するわけではありません。
こころが変われば、またその変わったこころに従うのです。
こころに従うという生き方の柔軟さがあります。
「それでいいのです、又仕方ないのです」という言葉もありました。
今、こころはこのように感じている。それでよい。それが「正しいのか正しくないのか」「永遠に同じなのか、変わってしまうのか」そんなことはわからない、けれども今のこのこころに従うよりは仕方がない。
決して正しさを求めず、ただ自分のこころにしたがうことだけに尽力するのです。これは謙虚さゆえの強い生き方なのではないでしょうか。
恐ろしいまでに真剣な世界
さて、ベジタリアン側の最後の弁論者は主人公の「私」です。ここに宮沢賢治の「こころ」の主張があると思います。
「すべての生物はみな無量の劫の昔から流転に流転を重ねてきた。
あるときは畜生、ある時は天上にも生まれる。 その間にはいろいろの他のたましいと近づいたり離れたりする。則ち友人や恋人や兄弟や親子やである。 それらが互いにはなれ又生を隔ててはもうお互いに見知らない。無限の間には無限の組み合わせが可能である。 だから我々のまわりの生物はみな永い間の親子兄弟である。
異教の諸氏はこの考をあまり真剣で恐ろしいと思うだろう。恐ろしいまでこの世界は真剣な世界なのだ。」[前提書より引用]
まさに恐ろしいまでに真剣な世界です。
本のページを歩く小さな虫も、ご飯の茶碗に残った米粒も、身の回りのすべての生き物たちは、みな永い間の私達の親子、兄弟であるというのです!ゾッとします。全ての行為に巨大な責任が生まれます。永い間の親子、兄弟たちを食らい、殺しつつ、私達の生活が送られているというのです。
「生かされて、生きる」なんて簡単にキャッチコピーにされますが、そこにはどれだけ真剣な気持ちが込められているでしょうか。
こうした世界観を、一体どれだけの人間が「こころから感じて」生き続けられるのかは、それはわかりません。しかしきっと、宮沢賢治はこんな世界を生きていたからこそ、あれだけ素晴らしい作品を残し、壮絶な生き様を残していき、わたしたちに深い感動を与え続けているのでしょう。
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