「聖書」は人間が書いた不完全な書物-田川建三② my読書[5]

前回の人は食って寝るために生きる。田川建三①my読書[4]では、田川建三の宗教批判を、「生活・現実」を離れることへの徹底的な批判という点に注目しました。
今回は、新約聖書を神の言葉として絶対化することへの田川の批判に注目します。

「聖書」は人間が書いた不完全なもの

新約聖書と呼ばれてきた書物は、本当はもちろん「聖書」ではない。[…] 人間が書いた文章、歴史社会の制約の中で、また自分個人の制約と欠点もかかえて生きている、その人間が書いた文章が、「聖書」、つまり超越的神的に絶対的な書物、一言一句いかなる欠点もなく、崇高で超越的な神の言葉なんぞであるわけがない。[…] 人間はそれぞれの仕方で限界のある存在である。だから、人間を「聖」の水準に持ち上げてはいけない。人間を「聖」の中に閉じ込めてはならない。
これを「聖書」に仕立てあげたのは、自分たちの組織に絶対的な権威を付与したいと思い続けてきた古代末期以降のキリスト教会のやった作業である。彼らは自分たち自身を絶対的な権威に仕立て上げたかったので、それで、「聖なる書」を必要とした、というに過ぎない。
それだけのことなら、「聖書」はあなた方の教会の壁の中に閉じ込めておけばよろしいのだが、そうはいかない。これは人類古代の貴重な文化遺産なのである。[…] それはすべての人々に、余計な粉飾なしに、ありのままの姿で、公開されないといけない。だから我々は、ここで、新約の諸文書を教会の壁の外に解き放って、多くの読者の方々が普通に読み、普通にその実態にふれることのできるような姿で、提供することにした。[1]

個人で訳した『新約聖書-本文の訳』の冒頭で、田川は堂々とこう宣言します。
「聖書」は神の言葉なんかじゃない、不完全な人間が、歴史社会の制約のなかで作り上げたものだ。「聖」なる書としてではなく、人間の書いた書物としてありのままの姿で読まれるべきだ、と。
田川は新約聖書学者として、人間の書いたものである「新約聖書」がいかなる経緯を経て書かれ、書き換えられて行ったか等を研究します。それゆえに、新約聖書がいかに不完全であるかを、それは「聖」の水準に持ち上げいかなる欠点もないものとして捉えられるものではないと、批判するわけです。

「人間の言葉」を「神の言葉」として捉えることの矛盾

宗教的な安心を求めて「新約聖書」およびキリスト教へ向かう人にとっては、「新約聖書」が神の言葉であり、絶対的であるという点に大きな期待をすると思います。
しかし、何らかの「神・絶対者」を信じるということと、「新約聖書」が神の言葉であると信じるということの間には巨大なギャップがあります。「新約聖書」はある定まった「言葉」であるから、それを「信じる」ということは、ある定まった「言葉」に縛られうることを意味します。
しかし「新約聖書」は人間の作ったものです。不完全な人間の作った、ひどい弱点を含んでいるかもしれない「言葉」に縛られるという可能性を生じます。
一言で言えば、「ある人間(たち)の言葉」を「神の言葉」であると強引に信じてしまう、そこにギャップがあるわけです。
一つの権威のもとに入ることによって、ある種の迷いを解決してしまいたいという欲望を満足させるためには良いでしょうが、その代償は、ある面での思考停止です。
「新約聖書の言葉」を守るため、様々の解釈をこねくり回し続けなくてはならなくなります。「新約聖書の言葉」の一つが間違っているのではないかと、素直に捉えることができなくなってしまうわけです。

イエスをブッダのように、稀有な生き方をした一人の人物として捉えたい場合においても、「新約聖書」の言葉はそのままイエスの言葉ではありません。これも仏典の数々がブッダその人の言葉そのままではないということと同じです。仏典の研究者や、聖書学者たちはこの事実を明らかにしてきました。文献学的にも「神」は死んだのです。
そうなると、様々な人間の手を経て書き換えられ、まとめられた「新約聖書」(あるいは仏典)の言葉自体を絶対的に信じるということには、一体どのような意味があるのでしょうか。イエス(ブッダ)の言葉がそのまま書いてあるのならともかく、です。

「新約聖書」=イエスの言葉・教えではない。

例えばマタイ福音書の山上の説教の「霊において貧しいものは幸いだ」という有名な言葉の「霊において」という言葉は「マタイ的学派」による解釈的附加であって、原始キリスト教団の基礎伝承においては、
「幸い、貧しい者。神の国はその人のものになる」
であっただろうとの推定を田川は紹介します。それは「現実の貧困を宗教的な敬虔主義へと抽象化」しており、イエスの自身の言葉はマタイ学派の解釈とは真逆であったと主張します[2]。(「新約聖書」それぞれの編纂過程等については田川の大著『書物としての新約聖書』、田川自身の捉えるイエス像については『イエスという男』をお読みください。)
聖書を読んでも全然イエス自身の言葉に触れられるわけではないのです。

17人の異なる著者(立っている位置も、関心の持ち方も、考えていることも、人間の資質も互いにまるで異なる著者たち)の書いた27もの文書が、更に加えてその中のいくつかは後の編集者によって大幅な、ないし多少の書き加えがなされているのだから、あらゆる矛盾に満ちているのは当然なのである。
これが「聖書」と呼ばれ続けてきた文書集の実態なのだ。[3]

要するに『新約聖書』といっても、イエスの言葉、教えにそのまま触れることができないのです。
キリスト教を少しでも学んだことのある方にとっては当然のことかもしれませんが、宗教的な安心を求めてキリスト教に興味を抱き始めたぼくにとって、田川が様々に明らかにする新約聖書の改ざんは衝撃的でした。(もちろん、聖書学を通してイエスが本当に語ったとされる言葉に近づき、そこから「自分なりの」イエス像を作り上げていくという方法もありえます。
同時に『新約聖書』という著作群の言葉を、絶対的な権威の言葉として信じて「思考停止」をしてしまいたがっている気持ちが自分の中にあることにも気づきました。(これを「思考停止」と呼べると同時に、「神が聖書への信仰を求めている」とも呼べます。どの立場に立つかによって言葉は変わり、何かの立場に立たねば何も言えません)
(アウグスティヌスを読んでいたからでしょうか。しかし、アウグスティヌスは「聖書」の絶対性を前提しつつも、「聖書」の神の言葉は人間にとっては「神秘」であるという余白を残しており、その点にすてきな可能性を感じます。また、自分が聖書よりも何よりも、神の前に告白している、生きているという雰囲気がとても強いです。)

どこにも権威がないなら、自分が権威になる。

じゃあどうしたら良いのか。
ぼくが今思うのは、仏典でも聖書でも偉人の文章でも、自然の事物でも芸術作品でも、「それ」が自分に呼び覚ますものを大切にすべきだと思います。
「それ」に触れて、「それ」を読んで、自然と湧き上がってくるところのものにこそ、注意を向けるということです。あるいは注意を向けず、虚心に感じることです。
これは外から来る「権威」を無視して、自分が感じるところにのみ「権威」を与えるということです。権威を自分のもとに取り戻すということです。「聖書」だろうが、「仏典」だろうが、「神の言葉」だろうが、関係ねぇ、おれはこう感じる、実際それ以外にないんじゃい、ということです。
しかしここで、自分の過去の見解に固執してもいけません。いつでも、そのつどの自分(自分とはいつでも「今・ここ」と過不足なくイコールですが)が感じることだけに尽きている、尽き続けているわけです。(このあたりで、結局ニーチェに戻ってくるようにも思います。頭だけの自己ではない、全身の自己。)

絶対的な「権威」によりかかりたいという思いは誰にでもあると思いますが、それは盲信への甘い誘惑と紙一重だと思います。
ぼくは、神や絶対者の前に立とうとしても、ただの盲信によっては巨大なエゴイズムの塊にしかならないように思います。西田幾多郎の言う、神と「逆対応」的に接するような、全くの断絶、跳躍を待つことが必要なんじゃないかと感じます。
「権威を自分に取り戻す」なんて偉そうで大変そうですが、「神の死」すらも空気のように常識になってしまっているこの現代において、この点を飛び越えることはできないように思います。

注意
・田川建三の立場に対する応答ですが、とりあえず今のところは西田幾多郎の記事をお読み下さい。この記事で語る、「自力に絶望し自己を投げ捨てる宗教の立場」に対して、田川建三の思想は何も答えることがないと思います。
・「聖書を神の言葉としての絶対性と同時に受け入れる」岩下壮一のカトリック信仰の立場にもぼくは多大な関心を寄せています。これも記事にします。
補足
・このブログは、ばさばさの探求の過程を書きながら考えるもので、决定した自分の思想を語るものではありません。
ご意見や感想、批判暴言を頂けると、参考にできますのでとても嬉しいです!そのためにブログやってます。
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[1],『新約聖書-本文の訳、携帯版』田川建三,作品社,2018,「はじめに」
[2],『宗教とは何か[改訂増補版]下-マタイ福音書によせて』田川建三,洋泉社,2006,第4部「山上の説教によせて」pp.17-25参照
[3],[1]と同書、同じ章。

7 件のコメント

  • 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
    テモテへの第二の手紙 3:16 口語訳

    あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
    ヨハネによる福音書 5:39 口語訳

    • コメントありがとうございます。
      「聖書とは誰にとって、どのような書物であるのか」を、田川さんの見方よりもひとつ掘り下げて考える必要があると思います。
      田川建三のキリスト教批判への応答記事、これからしっかり書いて行きたいです。

  • 聖書でも手紙の部分は人が書いたもの。
    イエスキリストの直接の弟子が聞いたこと、以外は全て人の考え方入っていると思います。
    一部真実が入った書物であると私は考えています。

  • 聖書でも手紙の部分は人が書いたもの。
    イエスキリストの直接の弟子が聞いたこと、以外は全て人の考え方入っていると思います。
    一部真実が入った書物であると私は考えています。

  • イエスをイエスとして受け止めること、それは自己の内部に於ける「ひとつの権威の確立」と言えます。そのようにして手に入れたイエスは「ある意味」「お金です」。これによってわたしは多くのものを「買いました」。不思議なことですが、生きることが食べる事である時、「イエスの言葉は食べ物である」のです。しかしまた教会が「イエス」と「信仰」を分離しようとしている時には、我々は「信仰」をすてなければなりません。「イエス」を捨てることは不可能だからです。「イエスの言葉」が何であるのか、それは「わたしの感得するもの」です。そのようにして我々の前にイエスを置いたのは、「神」であるからです。
    全知であり全能である神を「感じます」。それはイエスの指し示すものです。教会の力ではないのです。

  • 坂本達雄さま

    すばらしい言葉です、ありがとうございます。
    食べ物、生きる糧を頂いて、
    じゃあそれで何をするのか。どんな生を送るのか、誰のために、何をするのか。
    何のために、食べるのか。
    食べて得た力を何に使うのか。
    何度でも顧みなくてはなりません。

    海野つばさ 拝

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    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。