当ブログをお読み頂いているみなさま、こんにちは。ばさばさです。
約1年間をかけてアップしてきた小説『ぼくたち』ですが、未完のまま終了致します。
楽しみに読んでくれていた方には、ほんとうにごめんなさいです。
大きな理由は2つあります。
1,『ぼくたちは』の小説の限界、そしていまの自分の創作能力の限界を知ったことです。
2,その自分の限界を知った上で更に、「小説を書くこと」にもうひとつ徹底して取り組みたいと思ったことです
……ありゃりゃ…頭の中を整理しながら考えるのは久しぶりで面倒だし、
方向性の誤った努力でもあると思うので、この先はぐるぐるしながら書いちゃいます。だってナマのものは、言葉以前のもやもやですから。
小説はすごいです。
ぼくは仕事に疲れて、布団に入っても眠れません。でも、小説を20分くらい読むと、仕事の世界を忘れて、小説の世界に入ります。ぼくの頭に訪れた新しい世界は、仕事の世界を忘れさせます。それは癒やしです。休日のようなものです。
それで、もっと読みたいとは思うけれども、本を閉じて眠ります。明日はまた新しい一日があるからです。本は待ってくれますが、新しい一日は待ってくれません。早起きしてしっかり座禅ができないと、新しい一日をちゃんと生きることができないから、仕方なく、本を閉じて寝ます。仕事のことなんかまるきり忘れて、爆睡です。
起きればまた新しい一日で、新しい心で、仕事ができます。小説はすごいです。
小説は、自我を透明にして、他者の魂の深い部分に関わることを可能にします。
例えばぼくに弟子がいたとしても、ぼくはその弟子の魂の奥深くに近づくことは困難です。ぼくのエゴが邪魔をするからです。いくら師匠とは言え、彼は人間なのです。人間が、別の人間の心に触れることは、とてもむずかしいです。どうしてもエゴが目につくのです。
人生訓はもちろん、エッセイだって、エゴを感じざるを得ません。特にぼくはプライドの高い人間なので、「誰か」が喋っているという時点で、エゴのノイズとともに相手の話を聞かざるを得ません。「この人こんなこと言ってるけど、あのときは…」と、雑念が湧いてしまう。
しかし小説は、言葉です。言葉という物質を持たぬものによって、相手の頭のなかに、相手の頭のなかにある材料を使って、相手の頭のなかに、世界を創り上げるのです。もやもやの設計図を渡すようなものです。読者は文章(もやもやの設計図)を読んで、それをもとにして自分の頭のなかにもう一つの世界をつくります。
このあたりに、小説の神秘があるんでしょう。ほんとうに神秘的な力です。
他者が書いたものなのに、自分のつくりあげたものなのです。だから、エゴのノイズがない。
他者からのメッセージなのに、自分の中で誕生したもののように素直に受け取ることができる。
小説を通じてのみ可能な関わりがあると、ぼくは強く感じます。
「こんなことで悩んでいるんだよね」って話を聞いて、相手に「それは悩みとは言えないんじゃないかな?というのは……」と言ったって、誰が聞くでしょうか。
ヘッセの『デミアン』という小説に、すごくお互いに分かりあった友人同士で話している時、シンクレールが「つい相手の一番の弱点を衝いてしまう」という場面があります。
「お前は古典を読んでいるだけで、結局行動してないじゃん、過去の思想を遍歴して悦に浸っていて、、その実、それをお前の人生に活かしてないじゃん」みたいなことを言っちゃうんです。
それは彼にだって分かっていた。お互いに分かっていた。でもそれは言っちゃいけないことだった。
一番言っちゃいけないこと言っちゃったって、シンクレールもすぐに気づくんだけど、
「あぁ…たしかにそうだ…きみは間違ってない…。ぼくは逃げているだけなんだ…」って、彼も超しょんぼりしちゃう。
結局その日を最期に、二人の道はわかれて、さよならになっちゃう。
ほんとうに、こういうことがたくさんある。言っちゃいけないこと、言うべきでないことがたくさんある。
ぼくはそんなことを考えて、たいていのことは言わない。言えない。
言いたいことどころか、言うべきことすら言えない。昔からそうだ。気が小さくて臆病で、誰かに嫌われたり恨まれたりしたくないから。
でも小説でなら、表現できる。読む人と、もう一つの世界を共有して、一緒の景色を見ることができる。となりで一緒に映画を観るみたいなもんだ。観終わって感想を言い始めちゃったらもうだめだ。
お互いに「こいつどう思ったかなぁ」なんて想いながらも、相手に直接は聞かない。同じ映画を隣で見たってことだけで、十分だ。そんなやさしさみたいなもの?
小説は、一つの世界を、あなたと共有することができる。隣にはいないけれど、あなたの隣に実は作者も座っていて、じっと、同じ世界を見ている。同じ世界の人々を眺めている。
「こいつね、ほんと、大変な人だね…笑」「うん…ほんと…」って感じの、対話じゃなくって、同じ料理を食べて、かといって批評もしあわないようなかんじかなぁ。
この前トロワイヤの『ドストエフスキー伝』を読んでて、めっちゃ慰められた。
彼も人間関係ドヘタで、内気でシャイでずっと誰とも喋れなくて、いよいよ文学仲間ができた時には、うざったいくらいに議論して、自分の思想を理解しない学友を、納得するまで学校中追い回して、しつこくて。
小説が売れれば、パーティに出て失態をさらしまくり、左派集団に近づいて、けっこうとばっちりで死刑になっちゃうし。晩年も、一人問答をブツブツ言って、女中さんに議論をふっかけてブチギレたり、ヤバイやつだったみたい。
なのに、あんなにすごい小説を、やさしい人たちを書くことができる。そんなところも小説はすごい。
人間より、作品、小説はずっとずっとすごいのだ。ミケランジェロもゴッホも、たぶんろくでもないやつだ。みんな賛美したがるけれども、人間なんて結局どうしようもない。偽善できれいに塗り固めるか、ドロドロギトギトくせ強人間か、あるいは、ホトトギスみたいなぼけ人間。
ぼくは、人並みにできることもろくになくって、お悩み相談もきっとあんまり向いていない。
なんでもかんでも忘れちゃう、人並みにできないことばかり。ひとりじゃ生きていかれない。
修行に信仰に徹していくだけの求道心も、底のところではするりと逃げて、つかまえられない。多くのことを知りたいし、書きたいし、考えたい。
なまぬるいところでぐちぐち考えながら、生きているだけのぼんくらだ。どっちつかずの凡の助だ。
だからせめて、小説くらいは書いてみたいと思う。明恵上人みたいに耳を切って、仏さんに会うことなんてできないから、せめて、たくさんの本を読んで、文章を磨いて、ひとつの作品をつくるべく努力してみなくては、生きるに恥ずかしいもんだ。
そんなチャレンジを、向こう数年はやってみたいと思っている。
具体的な作品として仕上がるのは、10年後だって良い。37歳か。
ちまちま小説を書いてネットにあげるのとはちがうスパンで、「自分とつながりのある人が読む」小説ではなくって、誰が読んでも面白く、深い、現代を代表しうるようなちゃんとした小説を書きたいと思った。
作者ありきの小説ではなくって、時代じしんが生み出した「作品」みたいな、ぼくが頑張ったことによってのみ、生み出されたような、ちゃんと残るような小説だ。
思えば、ぼくは「自分にできること」をやろうという傾向でここまでやってきた。
このブログも、自分の思想なんてないし、文章力もないが、せめて誰かの本を紹介して、思い悩むもうひとりの人間に、外からのささやかな刺激でも与えたいもんだと思って、書いていた。
お悩み相談も、とりあえず「あいづち」くらいならできるから、とか。
大した思想なんてないけれど、同じ時代を生きた人間としては、ちゃんと会話することができるから、文章を書くよりも、直接会って話すほうが自分のいのちを活用できるだろうな、とか。
「自分にできること」をこえて、今の自分にはできないけれど、そこをなんとか突破してさえ、小説を書きたいと思う。そう考えてみると、今までの生き方とはチョットちがうのだろうと思う。
「いまの自分にできること」は、一面では、ずるい。損をしたくないし、すぐに結果を出したいし、(ぼくはとてもせっかちな人だ)手っ取り早く、感謝や、褒められるから。
でもそうじゃなくって、中途で終わっても、小説を書くなんてぜいたくなことを言っていられない時代になったって、まったくの無駄に終わったとしても、まぁしょうがないくらいに思える。
なぜなら、もし立派な作品を書けたとしたら、それはぼくにとって全く特別なことだから。まぁ人生頑張ったなって、思える種のことだろうから。そんなことは、いまのところ他にはない。
「いまのところ」っていうのがまた厄介なもんで、ぼくはだいたいいつだって、「他にやることなんてない」と思って、別の言い方でいえば、自分を正当化して、生きてるもんだから、それはいつだってすぐに変わっちゃうのだから。
でも、そんな生き方で別に構わない。変に執着してちゃ、自分で悩み始めてしまう。
とりあえずこれまでと同じように、(というか選択肢などないのだけど、)一本道しかないところを歩いていく。いまの景色は、「小説に賭けてみる」という景色なのだ。それは変わるかもしれないし、変わらないかもしれないし、でもどっちでもよくて、とりあえずいまのところは、好き嫌いせずにいろいろな小説を読んで学び、書きたい世界のことをきちんと学ぼうと思っている。
そんな感じで生きています。みなさんはどうやって生きているの?連絡、コメントなど、よかったら教えてください。
同じときを生きているというのは、不思議なことです。呼びかけることができる人なんて、これまで、これからの全人類の内の、ほんのほんのちょびっとなんだもんね。
もう一個、小説を書こうと思った大きな機縁を忘れてた。
新生活・仕事が始まって、あらゆる面でとても安定して、生活が秩序立ってきたということだ。
安定して本を読んだり書いたりすることができるようになった。
なにか、焦りや不安や、変な過大な要求みたいなものがなくなった。いろいろなことを、とてもフラットに受け取ることができる。腰を据えて、考えてみることができる気がしている。
朝早く起きて、座禅をして、お祈りをして、それから仕事に行くまでの時間、誰のことも考えずに、じっくりと使うことができている。
ぼくは好き嫌いが激しく、本を読んだり書いたりすることにおいてはとても感情的なんだと思うから、この傾向はとてもおもしろい。全く読み方が変わった。
「自分の問題」として実存的(?)に読む時期が終わった?いやちがう、カギカッコにつけたまま、実存的に読むことができるようになった感じだ。自分ごととして読むときも、ある程度のバランスをとりながら、冷静によめる。そう、単純に、落ち着いて本と関わることができるようになったと言えばいい。
ぼくは三人称(的)な小説を書きたいと思っているから、この感覚がとても大事だと思う。ちゃんと、「作者」として、登場人物に感傷的になりすぎないで、彼らの言動を立ち上げていくことができるし、語ることができる気がする。
これって、「若さを喪った」とも言えると思う。
でも基本的には「作品」を仕上げるためには、大人にならなくてはならないのだと思う。
「叫び」なら、若さだけで書けるのかもしれない。それを求める人もたくさんいるだろう。
しかし「叫び」は、共感しうる者にしか共感されない。
そのナマの叫びを、「作品」に仕上げるためには、作者自身が自分の「叫び」を抜け出さなくてはならないのだと思う、気持ちの良い感傷を抜け出さなくてはならないのだと思う。
自分の内の「若者・叫び」を殺すことで、「作品」を作るための静寂が生まれるのではないか。
ここには冷酷さがある気がする。またその冷酷さは、ぼくに適している気がする。
いくらでもだらだら書いてしまうから、ここで辞めにしますが、
ブログやtwitterは今までよりもゆっくり、のんびり続けて行くつもりなので、よろしくです。
ぜひ連絡など、たくさんください。待ってます。
コメントを残す