注意
ブログを始めて間もない頃に書いた記事で、ちょっと文体が病的ですが、そのままにしてあります。
ブログを始めて間もない頃に書いた記事で、ちょっと文体が病的ですが、そのままにしてあります。
大会の成績で自分を肯定する部活少年
僕は高校生までは部活少年としての日々を送っていました。小学6年のときからとあるスポーツ一筋で、高校のときはキャプテンもやりました。が、大会の成績につながらない活動は一切認めない堅物として、楽しさや仲の良さには一切注意を向けないキャプテンでした。当時の僕にとってスポーツは楽しむためのものではなく、大会に勝って成績を残し、自分の強さ・努力を証明するための手段になっていたと思います。
自分を認めて欲しい、自分の生に価値を感じたい。自分の毎日に重みを感じたい。いったいどうしてそうなったのでしょう。
遊んでいても何かが空しく、将来に焦る小学生
そのきっかけをたどると小学校時代にさかのぼれると思います。
小学校高学年の頃、僕はただ遊んでいるということに対してなにか違和感を感じていました。とくにゲームをやっているときふと思うのです。「あれ、これって面白いのか?なんの意味があるんだろ」と。遊び終わってふと我に返って、なんにも残らないことのむなしさ。そこまで夢中になれないゲームをやっていて、気づけば部屋には夕日がさして、けだるい空気が流れています。台所では母親が夕食の準備をしています。もうすぐ晩ご飯、今日もいつの間にかオシマイだ、今日の一日、楽しかったろうか。いや、なんだか一日無駄にしてしまった気がする。
あぁ、宿題をやらなくちゃ。明日明後日は塾で勉強だというのに、どうして今日の休みをこんな面白くないことに無駄にしてしまったのだろう。あぁ愚かなことをしてしまった。次はもっとちゃんと過ごさなくちゃ。中学生にもなればもっと勉強が難しくなり、宿題もどんどん増えて不自由になっていくのだろう・・・。木村敏の『時間と自己』からすると、完全にうつ病気質の少年です笑。
人生に意味と価値を与えてくれる部活の発見
そんな後悔ばかりの毎日を送っていた僕が発見したのが部活でした。
僕は中学校に姉がいたのでその縁で、6年生のときからその部活に参加させてもらっていました。そこの部は強くて、地元の大会でもまぁまぁの成績を残しているところでした。
さて、僕はそのスポーツにすっかりはまりました。練習を重ねれば重ねるほどにできることが増えていき、自分に実力がついていくことが感じられる。新しいショット、より厳しいショットが打てるようになっていく、夢中でやりました。
中学校に上がって正式に入部してからも、熱心に練習に参加しどんどん実力を伸ばしていきました。周りの子よりも一年早く始めていましたから、それだけ自分も強くて、その自分を誇らしく思っていたと思います。
その部活では男子の先輩がいなかったこともあって、僕たちの学年の男子は自分たちよりも経験が長くて強い女子の先輩とたくさん打ちました。格上の相手と毎日練習ができるとても良い環境でした。そうして僕たちの代の男子は一年生の終わり頃には地元の小さな大会でどんどん賞を獲るようになってきました。
僕も大会の度に賞状を持って帰り、家族が驚きました。僕は三兄弟の末っ子で、小さい頃から喘息で身体も弱く姉兄とちがって器量が良くないとのことで、なんだか家族から下に見られている、自分は劣った人間だという意識をもっていましたから、大会の賞状でもって家族が驚くこと、僕を見直してくれるようなところがとてもうれしくありました。
僕はできるだけ部活に全生活のエネルギーを集中させるようになりました。体育館が使えない日の退屈な外練習にも僕は頑張って集中します。練習を頑張れば頑張るだけ実力は伸びます。実力が上がれば大会でも勝てるようになって賞状をもらえます。賞状をもらえればクラスメイトも家族も僕のことを認め尊敬してくれます。「自分が頑張って努力をすればその分だけみんなが認めてくれる。努力ができる自分はそれだけ自分の価値を高くできる」無意識にでも、そんなふうに部活に熱中していた、取り憑かれていたと思います。
存在価値とイコールになった部活に取り憑かれる
成績を残すようになると、トーナメントではシード枠になります。そうすると「自分の位置(価値)」をはじめから持つようになります。今度はそれを守らなくてはいけない、自分の価値を少なくとも維持しなくてはいけない、と焦りが生まれてきます。
部活とは関係なしに、自分をもとから肯定できていたら、自分に劣等感をもっていなかったら、大会の成績が悪くなることもまぁ悔しいだけで済むと思います。しかし僕の場合、自分の存在価値や存在意義を大会の成績に見出しているため、大会での敗退は自分の否定のようでした。自分に価値を与えているものがなくなってしまえば、自分は空っぽのだめ人間になってしまいます。
今から解釈すればこう考えられるというだけではありますが、(解釈で事実がどれだけ捻じ曲げられているか到底わかりませんが)僕にとって部活動は、自分の存在とイコールでした。
小学校時代の何も残らない、どこか退屈なむなしさは、自分の存在を証明し自分の価値を高めてくれる毎日の部活動に取って代わられました。
毎日の人生の審判者となった部活動
あとには何も残らないこと、自分の人生の虚無感は、人間の根源的な悩みの一つであると思います。
大会の成績という自分の存在意義につながっていく部活動を手にした僕は、毎日の暮らし、自分の生に意味を見出すこととなりました。毎日の日々、一時間一時間は決して無意味ではない。それをいかにそのスポーツの実力向上につなげられるか。
大会の成績(=自分の価値証明)が、僕の毎日の生活、人生の最大価値として君臨することとなりました。その価値に資する時間は有効な時間、それにつながらない時間は無駄な時間。
僕は価値判断の基準を手にしました。この基準をもとに、いまの自分の価値も図れるのでした。
そのスポーツの実力アップにつながる生活ができている僕は価値(意味)のある人間、練習に集中できなかった今日の僕はだめ(無意味)な人間、といったふうにです。
部活動が僕の人生の裁判官となりました。部活は僕のその一日を否定することもある厳しい審判者であると同時に、なんの意味も感じない自分の人生に意味を与え目的を与え方向を与えてくれる存在でもありました。
さて、僕はこんなふうにして、高校生までを部活一筋の少年として過ごしました。
自分の存在価値を証明するために脅迫的に実力向上を目指す人間として過ごしました。
そんな僕にとって、それまでの価値の一切が終わる、世界が終わる瞬間が訪れます。高校3年生の初夏、部活の引退です。
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