自分の部屋でレクティオ・ディヴィナの聖書黙想を行って得た気付きと内省とを、分かち合いとしてこちらに載せます。
みなさんの聖書の黙想にお役立て頂けましたら幸いです。
とりあえず今回は文語文でやりましたので(頭に言葉が残りやすい気がする)文語文で失礼します。まずは聖書を引用して、その後、分かち合います。
ドライブ中などに聖書に触れられるように自分用に録音したものですが、もしかしたらみなさんのお役に立つかも知れないので、アップしました。ご活用くださいませ。
15:1我は眞の葡萄の樹、わが父は農夫なり。 15:2おほよそ我にありて果を結ばぬ枝は、父これを除き、果を結ぶものは、いよいよ果を結ばせん爲に之を潔めたまふ。
15:3汝らは既に潔し、わが語りたる言に因りてなり。 15:4我に居れ、さらば我なんぢらに居らん。枝もし樹に居らずば、自ら果を結ぶこと能はぬごとく、汝らも我に居らずば亦然り。
15:5我は葡萄の樹、なんぢらは枝なり。人もし我にをり、我また彼にをらば、多くの果を結ぶべし。汝ら我を離るれば、何事をも爲し能はず。 15:6人もし我に居らずば、枝のごとく外に棄てられて枯る、人々これを集め火に投げ入れて燒くなり。
15:7汝等もし我に居り、わが言なんぢらに居らば、何にても望に隨ひて求めよ、さらば成らん。 15:8なんぢら多くの果を結ばば、わが父は榮光を受け給ふべし、而して汝等わが弟子とならん。
15:9父の我を愛し給ひしごとく、我も汝らを愛したり、わが愛に居れ。 15:10なんぢら若しわが誡命をまもらば、我が愛にをらん、我わが父の誡命を守りて、その愛に居るがごとし。
15:11我これらの事を語りたるは、我が喜悦の汝らに在り、かつ汝らの喜悦の滿されん爲なり。 15:12わが誡命は是なり、わが汝らを愛せしごとく互に相愛せよ。 15:13人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし。
15:14汝等もし我が命ずる事をおこなはば、我が友なり。 15:15今よりのち我なんぢらを僕といはず、僕は主人のなす事を知らざるなり。我なんぢらを友と呼べり、我が父に聽きし凡てのことを汝らに知らせたればなり。
15:4「我に居(を)れ、さらば我なんぢらに居らん。」
主よ、あなたはなんと、お約束になりました。
私たちはただあなたに居り、御父に清められ、実を結ばせて頂くだけで良いのであります。ただ、あなたとともにいること、あなたに留まること。
そうしたらあなたも私たちの内にいて、私たちは自ずから清められ実を結ぶ。あなたが明らかにお約束なさっているのに、どうして私はその約束を破るのでしょうか。
15:3「汝らは既に潔し、わが語りたる言に因りてなり。」
あなたに既にきよめて頂いているのに、私は自分からあなたを離れ、罪の元に奴隷入りして、友であるあなたを裏切り忘れてしまう。
私は私の心の友を思い起こします。折りに触れて、今はどうしてるか、と思い浮かべ、意識する。
イエス様、あなたが友であることは、そういうことなのでしょう。どうか私の内に、あなたを真の心の友としてください。私は忘れてしまうのです。あなたの恵みがなければ。
そして
15:10「我わが父の誡命(いましめ)を守りて、その愛に居るがごとし。」
あなた自身も、御父の御旨を想いつつ、生き、御父の愛の内にとどまっておられたのです。
イエス様には御父が、私たちにはイエス様が。イエス様という木を通して、農夫である御父に愛され、清められ、実を結ぶ私たちです。イエス様によって、私たちは父なる神の子どもとなるのです。
15:12「わが汝らを愛せしごとく互に相愛せよ。」
主よ、あなたは何一つ、私たちに一方的にはお求めになりません。
私たちが命じられたことはすべて、わたしたちが受けたもの、私たちがあなたから与えられたものなのです。
だから自由に、あなたに少しでもお返しするべく、親孝行をすべく、私たちはこの世を旅するのです。感謝の内に、兄弟のために働くのです。
そして真に兄弟のために働くとき、私はあなたの愛を知ることになるでしょう。
15:13「人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし。」
まさにあなたは、敵となった私たちのために、命を棄てました。
あなたを裏切り、忘れ、汚れた雑巾の如くに扱う私たちに、それでもなお「友」として関わり続け、十字架の途上においても心配し続けてくださるのあなたの愛は、計り知れません。
そのような愛を、わたしがいつか身を持って知ることが出来るように、私を導いてください。
15:5「我は葡萄の樹、なんぢらは枝なり。人もし我にをり、我また彼にをらば、多くの果を結ぶべし。汝ら我を離るれば、何事をも爲し能はず。」
主よ、そうです、私は兄弟を愛そうと想って行なうとき、ただ義務感から行っている自分を知っています。
これを行わないとしたら、なんとなく負い目を感じるから、仕方なくやる、そればかりです。あなたを見据えて行なうのではなく、自分の心地よさ、負い目を感じず、後悔せずに済むから。ということでもってのみ、行います。
そのときわたしは木であるあなたを離れて、枝だけで自分勝手に行っています。そこにあなたから流れる生命はないから、枝だけの私の行為は何の実も結ばないのです。結ぶとしても、それは自分で自分を認め慰めるだけの、高慢の実です。
その高慢が種となって、わたしに傲慢の芽を出させ、私は汚れていくのです。
わたしは木であるあなたに帰って、御父によって清められなければ、実を結ぶことができません。どうか私が、日々の活動の中においてあなたにつながっていられるように、お恵みください。
あなたとつながっていなければ、私には結局何もできないのです。空の空なのです。
主よ、私が私独りで行っているとき、私は律法主義者でしかないことを私に気づかせてください。
自分の清さを誇ってあなたの前に主張し祈るあの男から、
まごころからあなたに悔い改めるあの罪人へと、わたしを生まれ変わらせてください。清めて家に帰らせてください。
方向を間違えて歩むよりも、あなたとともに一歩も進まないほうがずっと良いのです。すぐに焦って歩き出して行こうとするわたしを引き止めて、あなたのもとにとどまらせてください。
あなたにつながっているところから、私にゆたかに恵みを流し入れてください。あなたに力によって、私が成長することができますように。
主イエス・キリスト 我ら罪人をあわれみたまえ。
レクチオ・ディヴィナについては、ぼくは前者の「神に近づく4段のはしご」を読み、黙想会で実践しましたが、同書はamazonでは在庫切れのようです。(四谷のサン・パウロにはあると思います。)
後者はより具体的に、わかりやすく書いてあり、こちらもおすすめです。『キリスト教は役に立つか』という来住英俊神父の本もとても良い祈りの入門書です。
自分が子育てしてきた中で、
我が子を思ってしてきたのか、
自分のためにしてきたのかを思い返すための
貴重な時を頂きました、ありがとうございます。
主イエスの慈しみに感謝と賛美。
コメントありがとございます!
自分のためなのか、他人のためなのか。
答えは出ないし、ほとんどの場合両者が分かち難く結びついているようにも思えます。
考えるきっかけになったのなら、ぼくもとても嬉しいです。
ぼくも自分の経験を、主の与えたもうた良心でもって真摯に省察することを大切にしたいと思います。