生きる意味を求める人へ。5つの探し方。

 

本記事は、「生きる意味」という曖昧模糊とした言葉を強引に使って、「生きる意味を求める人」を5類型してみた記事です。考えるきっかけにして頂けたらと思います。
まず、Aタイプの人「生きることを楽しんでいる人」がいます。
それから、
Bタイプ「生きる意味を求めている」人がいます。
Bの①に「本質的生きる意味探求者」Bの②に、「手段的生きる意味探求者」がいます。
そしてBの②「手段的に生きる意味を求める人」には、「意味がなければ生きられないほどにつらい環境で生きている人」と、「現実逃避のひとつとして生きる意味を求めている人」がいるのではないか。

そんな視点で、この記事では「生きる意味」にまつわる生き方問題を捉えてみました。
なお、下にある「だいち」さんのコメントから、この5類型は一人の人間の内面においても、変化し、ぐるぐると表情を変えていくものでもあるのだとも言えそうです。
つらい環境において「生きる意味」に支えられていた人が、そうした環境から脱したことで、「生きる意味」へ向かうスタンスが変化していくように…です。

非常に断定的で、荒削りな記事ですが、みなさまの考えるきっかけとなれば幸いです。(この記事に限らず、ぜひみなさまの感想、叫び、疑問、悩み等をコメント頂けると嬉しいです!)

「生きる意味を求める」人と「生きることを楽しむ」人

人間を2種類に分けることができます。
B「生きる意味を求めるタイプ」。
自分の「生きる意味」を求め、探している人。あるいは作り上げようとしている人

A「生きることを楽しんでいるタイプ」。
「生きる意味」なんて考えず、生きるのが楽しいから、生きている人。

Aのタイプの人はこの記事なんて読まないでしょう。どうぞ思う存分、その限りある生を楽しんでいかれたら良いと思います。Bのタイプの人に、僕は何か考えるきっかけを提供したいと思っています(当ブログのテーマでもあります。)

「生きる意味」がなくとも肉体は生きている

そもそも、なぜ「生きる意味」を求めるのでしょうか。(僕も何年何年もこの問いに苦しみました)
あなたは今のところ生きています。そしてその生命は「生きる意味」という抽象的な観念が成り立たせているのではなく、あなたの肉体が活動しているからです。
「生きる意味」はあなたの体のどこかに刻まれているわけでも、あなたの視界の片隅に焼き付いているわけでもありません。心臓にも書いてありません。
まず「生きる意味がなくたって生命として生き続けられる」ことが確認できると思います。食べて寝てさえいれば、生きることはできます。
周りの人を見てみても良い。どれだけの人が「生きる意味」を強く感じ続けながら生きているでしょうか。
「生きる意味」というものは、現実に存在するわけではなく、現実世界に直接的な影響を与えてもいません。

「生きる意味」を求める人はただ「精神的な欲望」が強い人

その点で「生きる意味」の追求は「精神的な欲望」を満たす試みに過ぎない、と、あえて言うことができます。生きる意味・精神的欲望は、あくまで人間の一部にすぎないというわけです。
突然自分の体験になりますが、僕は学生時代、「生きる意味」を求めずに生きているやつはくだらない低級な人間だと考えていました。ただ食って寝るだけの、およそ人間らしいとは言えない生活を送っている、低俗なヤツらだ、くらいには平気で言っていた気がします。
それは人間の「肉体的要素」を軽蔑し、「精神的要素」こそをより高貴なものであると、レベル分けしていたからです。
しかし、「精神的要素」こそが人間には重要だというのは、一つの信仰・思想に過ぎません。べつにそんなものなくたって、人は生きることができる。幸せを感じることは可能です。人それぞれ、としか言いようがない。
「生きる意味」を考える人間のほうがより優れている、なんてことはないのです。ただ、精神的欲望が強いがゆえに、考えざるを得ないというだけ。
このことを言いたかったのが、本記事を書いた一つの大きな目的であります。過去に自分に対して、ビンタしてやりたい気持ちです。

それでも「文学」や「哲学」を学ぶようなインテリは、自分では気づかずに「精神的欲望」こそ素晴らしいものなのだと、「物質的」人間(現実的人間、地に足のついた人間と言っても良いでしょう)をバカにしているものです。Aタイプをバカにするということです。

「精神的満足」を求めざるを得ない「本質的生きる意味探求者」

では、ある人にとって「生きる意味を探求」するほどに「精神的欲望」が強くなるのは、なぜなのでしょうか。

B-①本質的「生きる意味」探求者。その人の変え難い個性として、どうしても「精神的な満足」を求めてしまう人。
このタイプの人は、たとえどんなに物質的に、更に対人的に満たされていても、つまり世間の人が考えうる限り最高に幸せな状況の中にあっても、「生きる意味」を求めてしまう人です。地位金名誉、最高のパートナーに、最高の家族を持っているのに、幸せを感じることができずに出家するような人です。
彼を幸福にできるのは、第一に「信仰」でしょう。「生きる意味」を与えてくれる、広い意味での信仰です。
別に特定の宗教的信仰という形をとらずとも、「人のために尽くすことこそが、私の生きる意味だ」とか、「作品という形で我が魂を表現することだけが、私の生の使命だ」とか、どんな形でも構いません。
とにかく、その信仰が提供する世界の中に自分を置くことで、「生きる意味」を感じて生きることができるようなものです。「生きる意味」というヒエラルキーの頂点に、個人的な「信仰」があり、その「信仰」から、生きる意味が降りてきて、その人の生は秩序化されます。
つまり自己自身の幸せへの道が一直線に、精神的欲望へむかって伸びている人です。
それがあなた自身の道ならばとても素晴らしいと思います。

しかし、もし少しでも無理をして「精神の人」を目指している気がするのなら、あなたはB-②タイプの人かもしれません。

手段的「生きる意味」探求者。生きる意味に生きる力をもらう

B-②,手段的「生きる意味」探求者。「直接の「精神的欲求」からではなく、あくまで手段として「生きる意味」を求めている人。
このタイプから更に2つだけ挙げて考えてみます。

「地獄を生きぬくために」タイプ
決して変えることのできないつらい現実の環境の中で、「生きる意味」によってその苦しみに意味を与えねば生きていけない人

奴隷や迫害を受ける人々、過酷な環境で労働に従事せざるを得ない人々が強い信仰を持っている例は歴史に多くあります。
彼らは「信仰」がなければつらい現実を生きていくことはできかったのかもしれません。
いや、つらい現実を生きるなかでこそ、生活のなかに信仰を発見するのかもしれません。

「地獄を生き抜くため」のタイプの人々は現実の環境が改善されれば、「生きる意味」への欲求もなくなってしまうかもしれません。
現実の人生に満足を感じ納得がいけているのなら、「生きる意味」「精神的な満足」はもう必要ないというわけです。
生活を絶望的に覆う負の要素を生き抜くために、「生きる知恵」として「生きる意味」をもっていたから、負の要素がなくなったとき、その知恵は要らなくなるかもしれない、ということです。

現実逃避タイプ

「現実逃避タイプ」。
目の前の不満な、納得のいかない現実・状況はべつに絶望的ではなく、その現実を変えられる可能性もあるのだが、その現実を変える勇気も覚悟もないために、「生きる意味の探求」という「ぬるま湯空間」にとどまって、現実から逃げてしまう人。
現実へのただの不満を、「生きる意味探求」によってごまかそうとする人。

「地獄を生き抜くためタイプ」との違いは「現実の状況を変えられるか否か」です。
大して大変な環境にいるわけでもないのに、現実からの「逃げ道」として「精神的満足」を求め、「生きる意味」を求めてしまっている人です。あなたはどうでしょう。
僕はこのタイプでした。現実の人との関わりが苦手だから、現実に楽しさを感じられないから、「生きる意味」を求めて哲学書や文学を読み漁り続けました。
自分は「生きる意味」という「高貴な」生き方を探求しているのだ、と自分の存在を正当化してもいました。
結局は自分に価値を感じたいだけです。自分で自分を認めたいだけです。そのようにして現実から目を背け、逃げていました。
それは今生きている現実をないがしろにして、「精神的世界」へ逃げ込んでしまうことです。僕は「生きる意味」を求めて高貴な探求を行う者と自負して、本当はそこまで楽しさを感じていない哲学書を熱心に読み、現実に背を向け続けました。
現実をどうしたら楽しめるか、工夫し挑戦し、現実を楽しくすることによって解決する道もあったと思います。

現実へ不満がある、納得がいっていないのにそれに目を塞ぎ、現実の改善でなく「生きる意味」の探求に走ってしまう。そんな人がいたら、もう一度考え直して欲しいのです。
「生きる意味」を探す前に目の前の現実を豊かにすることは本当にできないのか。
抽象的世界に逃げ込む前に現実の世界と正面から向き合うことはできないのか。

「生きることを楽しむ」のに「生きる意味」は必要ない

ここで「生きることを楽しむ」という生き方に戻りたいと思います。
たとえ「生きる意味」がなくとも、あなたは生き続けます。あなたが人生に不満を持っているのは、「生きる意味」がないからではなく単に現実に不満を持っているからではありませんか。
現実の楽しさに目を向けられていないからではありませんか。
もし現実を充実させることができたら、「生きる意味」なんて要らないのではありませんか。
生きていることの楽しさ、現実をしっかりと見つめたことはあるでしょうか。

「いや、俺には生きる意味が絶対必要だ、他のものによっては絶対に満たされない」と、「生きる意味」を探し続け、自分なりに創り上げていくという道があります。

一方で、もう一度現実を生きてみる、楽しもうとしてみる、という道もあります。

「生きる意味」があるかどうかと、「生きることの楽しさ」には直接の関係はありません。
そして「生きるのが楽しい」ということは、生きていく力強い「理由」「意味」になりえます。
「生きることが楽しい」から「生きる」わけです。
そもそも人生を楽しんでいる人は「理由」とか「意味」なんてことも考えない。そんなことよりも限られた人生を楽しむことに忙しいでしょう。
「生きる意味」を求めているあなたも、「現実を楽しもうとする」ことで一切が解決するかもしれません。

 

「生きる意味」を探すのもいいけれど、現実を楽しもうとする道もあるのです。

補足
・「生きる意味」というあいまいな言葉を使ったため、語り方で強引に書いてしまいました。このテーマについては何度も語り方を変えて書かなくては誤解を生むと思います。
・僕自身は「生きる意味」はあると考えていて、それは各人が「自分自身に本当にあった道」を歩んで生きることです。各人が各人の唯一の命をその人の形で全うすることが、世界の完成です。
当ブログとぼくの活動についてはぜひこちらを御覧ください!

現実を離れた「生きる意味」を問わないこと―『超越と実存』南直哉

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西田幾多郎の宗教哲学②ネルケ無方様(安泰寺)「why(なぜ生きるか,生きる意味)を徹底してこそのhow(いかに生きるか)」

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人はなぜ宗教を求めるのか③「私」は「人生の主役」か、「真理に仕える者」か。

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『ゼロ年代の想像力』後編 同質的で安全な世界を出て他者と向き合う

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10 件のコメント

  • 今初めて拝読しました。生きる意味をめぐる人のあり方が、うまく整理されてまとまっていて、納得のいく内容でした。
    この文章、僕と話した少し後に更新されたのですか?

    僕自身は、「本質的生きる意味探究者」「手段的生きる意味探究者」「現実逃避タイプ」のどの側面も持っていると思います。
    現実がうまくいかなくなるほど問いに逃げ込んで、そこにアイデンティティを見出すこともありました。
    生き抜くために、苦しみのマイナスを相殺するだけの意味を生きることに求めた時期もありました。
    そして、だいたいの問題がうまく行っていても、どうしてもそういった現実の根底に根本的な意味を求めることをやめられないかった時期もあります。
    しかし、それらは流動的で、自分を明確にこれらのどこかに位置付けることはできません。
    精神的要求が強く、本質的に生の意味の探究者だという面もあると思います。
    しかし、そういった探究心は、現実がうまくいっていないときにより強くなる傾向があると思います。
    僕の生の意味の探究は、生の苦しみや、生にまつわる否定的なことがら一般と結びついています。
    そして僕自身は、そういったことがらを完全に解決することはほとんど不可能だと思っています。
    したがって、解決すると思えたり、解決したならば、生の意味を求めなくなる可能性もあります。
    しかしまた一方で、生の意味を意識したならば、(特にある種の人びとは)生の意味がなければ人生をほんとうに楽しむことはできないような気もします。
    人間にはそれが可能であり、またそれはそれ自体として原理的に思考可能、意識することが可能で、また、おそらくはそれは単なる言葉による虚構ではなく、事実あったりなかったりすることが可能なことがらなのではないかとも思います。
    そして、それを意識し、それを根本的な問題だと思う人は、生きる意味なしに現実を楽しむことは、一定以上は不可能なのではないかという気もします。

    この記事の整理は、とてもわかりやすく、すばらしいと思います。便宜的なものだということも意識しながら書かれているのかもしれません。
    しかし、実際には、一人の人間の中でも、この三種の要素は混ざっているのではないかとも思いました。

    • だいちさん

      この記事は、個人的にはかなり分かりづらかったなと思いつつ、修正不可能だなぁという記事だったので、予想外の嬉しさです。
      (だいちさんとのお話の後に更新はしてません。このコメントを元にまた少し修正できたらなぁと思いつつ…)

      この記事に、生きるリアルな厚みを与えてくれるコメント、ありがとうございます。

      まさに、一人の内にこの諸要素が混ざり合って、それぞれに波と濃淡とがありますね。
      このことには、これを書いた当時は気づいていなかったと思います。

      この記事を書いたときは
      「あなたは本当に、生きる意味を求めているのか?」というスタンス、覚悟を問うような感じで書いたような気がします。

      それに対してだいちさんのコメントは、
      生きる意味の4タイプを一人の人間のうちで活用していくような、新しい視点でした。
      とても参考になります。おそらく他の読者の方にとっても、そうだと思います。
      新しい可能性が生まれた感じがしています。
      ありがとうございますー!

      ばさばさ

      • つばささん

        ありがとうございます。
        いえいえ、とてもわかりやすかったです!
        そうなんですね、上に↻(回転矢印)がついてて、その後に僕と話したののちょっと後の日付が出てたので、そういうことかのかな?と思っちゃいました笑
        なんのマークなんですかね??

        また、記事に僕のコメントでの意見も取り入れてくださって、ありがとうございます!
        そうですね、実際、生の意味への要求を持つ人はけっこういると思うのですが、その強弱や性質、問い方といったものも、現実で向かい合っている問題とも関係する形で移り変わっていくようにも思います。
        一方で、この記事のような区分も確かに成立すると思うし、この区別に基づいて自分を反省したりもできるように思います。

        参考になる記事ありがとうございました!またブログ見させてください^^

        だいち

        • だいちさん
          それはまさに更新のマークです!笑
          読まれている記事はたまに読み直して改善するので、電話のあと、何かのタイミングで改善、訂正したのだと思います。覚えてないから、たぶん時の間違いやマーカーを加えたくらいだろうと思います。

          「移り変わり」まさにそうですね。私たちは、「変化していくこと」にもっと安心すべきなのではないかと、よく思います。なんでも「保証・不変性」ばっかりで、あほらしく思います。
          変化していくことを受け止めて、そのつど考え考え生きていく姿勢こそが、大切な気がします。
          いつもコメントありがとうございます!

          ばさばさ

  • 生きる意味なんてものはない。信仰も食う寝るも感情もめんどう。人間はなにも思い通りにできないがとにかく楽に消えたい人はなにタイプにもなれないですかね?

    • ななしさん

      コメントありがとうございます。すべてが、生きることすらも、めんどうくさいのですね。

      「とにかく楽に消えたい」そうですが、やはり、楽に消えることも難しいと思います。人間はあくまで生命として、根本的に生きようとするものですから。自分の生死すらも、なかなか「思い通り」にはなりません。

      ななしさんの状況に対して、何も気の利いたことは言えません。参考にもならないでしょうが、ぼくの個人的な返答は以下です。

      「とにかく楽に消えたい人はなにタイプにもなれないですかね?」とのことですが、「生きることを楽しむ」タイプに近づくことは可能だと思います。
      そのためには、この現実のうちに、楽しみや喜び、大切なものを、ななしさん自身が見つけるしかないと思います。
      しかし、ななしさんは、感情すらもめんどうくさいようですね。そうしたらこの方法も難しいことと思います。

      それならば「感情がめんどうくさくなくなる」まで、じっと待つことだと、ぼくは思います。
      感情が息を吹き返すのを待つということです。
      「食うも寝るもめんどう」でも、ななしさんは眠くなるし、お腹が空くから、食べて、現にいま生きておられるのでしょう。
      じっとしていて、感情が飢えれば、感情を求めるときも来るのではないかと思います。人間は自ずから生きようするものだと思いますから、余計なことは考えずに、それを待ったら良いのではないかとぼくは思います。

      でも、何も知らない他人のアドバイスほど、役に立たず、腹立たしいものはないと思います。
      またコメントを頂ければ、とりあえずこんな調子で、ぼくなりに質問に応えることは可能です。
      少しでも良いことが、ななしさんにありますように。
      失礼します。

      ばさばさ

  • はじめまして。
    私はここ数年、生きる意味を見つけたい・何者かになりたいという思いを常に抱えつつ、思うように動けない自分自身に対しもどかしさを感じています。自分自身が楽しんで何になるのか、他人にとかいう以前に自分で自分を(本心で)誇れるのか。

    私は自身のことを「社会不適合者」だと思っています(これは自虐ではなく、一つの価値観・アイデンティティとしてです)。この世を生きるのは辛く悲しいことで、意味がなければやっていられないと思うことは多々あります。しかし、いくら楽をしても、あるいは単純に楽しいことをしてもそれだけでは何か満たされない自分がいます。

    まとめると、「本質的」+「手段的」といったところでしょうか。ただし、客観的には決して絶望的とは言えない環境下におりますので、必ずしもこれが正確ではないかも知れません。宮台真司さんの提唱する「超越系」が近いかと思われます。

    今は岡本太郎さん、上杉正幸さんなどのような考えに心酔しているところです。
    自らの意味・目的のために殉死する。幸せを嫌う。それが理想です。悲観的・暗いと思われても結構です。

    今後人生を気楽に楽しんでいる人を、下に見たり侮辱したりはしない。それはそれで自由であり、尊重すべきとも思います。しかし、真にに自分が生きた、何かを残せた、満足したと思うためにはごまかしでない自分を貫いた生き方が必要であると思います。

    正直、ここに書いたような大それたことは自分にはできる自信はありません。それでも、できる限りのことはしたと思える人生を歩んでいくと誓います。宣言するようなコメントになってしまいましたが、自らへの戒めという意味で書かせて頂きました。

    • 前文 静眠さま
      コメントありがとうございます。初めまして。ばさばさです。

      「自らの意味・目的のために殉死する。幸せを嫌う。それが理想です。」
      素晴らしい情熱、若々しいエネルギーを感じて、すてきだと思います!
      ぜひそのエネルギーを爆発させて、あなたの道をまっすぐに突き進んで欲しいと思います。

      「自分への戒め」という言葉にかこつけて、私からも背中を押すアドバイスができればと思います。
      まずは自分の道を粘り強く歩むためにも、ぜひ体力をつけ、一番前向きに力を発揮できる生活習慣を作ってください。(この生活習慣には、時に思い切り緊張の糸を緩め、リフレッシュすることも含まれています。)
      人間、気持ちだけではどうにもなりません。気持ちに見合った心身の健康があなたらしい道を歩むエネルギー源になります。
      社会から外れた場所で道を歩むには、なおさら自分の内に、尽きることのない力の泉を養い続けねばなりません。
      あえて苦しい道を行くのですから、体力と粘り強さは不可欠だと思います。

      「今後人生を気楽に楽しんでいる人を、下に見たり侮辱したりはしない。それはそれで自由であり、尊重すべきとも思います。」
      この視点がとてもとても大事だと私は思います。決して「自分の価値を上げるため」ではなしに、「自分の道を貫くため」に、あなた自身の道を歩くという、混じり気のない動機こそが、力を持つからです。
      「人生、気楽に楽しむのだって、ありなんだ、それでも自分は、自分の道を貫くんだ」と思えてこそ、誰のせいにもせず、言い訳もなしに、やり切ることができるのだと思います。あなたの人生を、あなた自身の問題として生きることが、大切なのです。
      まさに「できる限り」のところまで、突き進んでいってください。徹底して打ち込んでやり抜くことで、また新しい道も見えてくるはずです。
      そして、たとえ自分の道を貫ききれずにバテたとしても、そのことは誇りにすべきことです。「気楽に楽しむ」ことを一度振り切って、自分が求めるチャレンジをしたのですから。

      前文 静眠さんのエネルギーを頂いて、私も熱く語ってしまいました。
      頑張ってください!応援しております!私も負けずに頑張ります!

      コメント、ありがとうございました。

      • ご返信、そして熱いお言葉ありがとうございます。
        “「人生、気楽に楽しむのだって、ありなんだ、それでも自分は、自分の道を貫くんだ」と思えてこそ、誰のせいにもせず、言い訳もなしに、やり切ることができるのだと思います。”とても印象に残りました。

        少し追記させていただきます。

        “「精神的要素」こそが人間には重要だというのは、一つの信仰・思想に過ぎません。べつにそんなものなくたって、人は生きることができる。幸せを感じることは可能です。人それぞれ、としか言いようがない。”

        興味深いところですね。真っ当なご指摘だと思います。実際人間もいち生物種に過ぎません。その点生きる意味を必須要素と言うのは少々無理があるとも思えます。
        しかし上杉さんの著書のような『人間は意味がなければ生きられない』という主張も存在します。不老不死人間や冒険家を例に出し、生きがいこそが必要、健康や安全はあくまでも「手段」であって「目的」であってはならないという話にも頷けます。そこは永遠のテーマになるかも知れません。

        noteの記事において「生きることの本質」について考えている途中なので、もしよろしければ“「精神的要素」~言いようがない。”の部分を今後の私の投稿に引用させていただければと思います。

        • 何が刺激になれば幸いです。

          永遠のテーマを持つこと自体、
          生きる上で大きな張り合いになると思います。
          心から応援しております。

          引用、有難いです!
          もし可能であれば、
          このブログへのリンクを貼って頂き、
          またnoteのリンクもコメントのこちらに貼って頂けると嬉しいです。
          (難しければ、
          このブログのどの記事も、
          リンク無しで引用して頂いて構いません)
          私もコメントに伺いますね!

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    ABOUTこの記事をかいた人

    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。