西田幾多郎の記事に、安泰寺のご住職、ネルケ無方さまからご感想のメールを頂きました。
御本人からブログに転載しても構わないとの許可を頂きましたのでシェアさせていただきます。ネルケ無方さんは、ドイツ生まれのご住職さんです。ネルケさんが任されている安泰寺は、檀家さんをとらずにお坊さんたちが自給自足で「一日不作、一日不食」(いちにち作さざれば、いちにち食らわず)を実践されている生粋の座禅道場で、諸外国の雲水の方がいらっしゃる道場として、禅に興味がある人は一度は耳にされたことがあるかもしれません。
安泰寺ホームページはこちらです。(力強い記事がたくさんありますので、ブックマーク推奨です!ぼくのブログなんかより笑)
では次の項で、メールの本文をそのまま転載します。
安泰寺、ネルケ無方さまからの感想、本文⇩
永井均さんのツイッターアカウントでばさばささんのツイートを拝
私が日頃考えている問題点と関係しているので、
そこで、私の感想及び質問です。
「宗教」と「道徳」の違いは、
ところが、です・・・
私自身は若いころから、「なぜ生きる?」
「禅ではWhy?と聞かない。Why?ではなく、How?だよ!
私にとって、これは晴天の霹靂でした。
同じ正法眼蔵には「生死」の巻があります。
最後に近いところで、「わが身をも心をも放ち忘れて、
なぜ、道元は宗教の極秘の後に、
http://www.bdk.or.jp/read/
に書きましたが、両者には恋(宗教体験)と愛(
「宗教」と「
ある日、講演の後の質疑応答の際、
「このどうしようもない私が、はたして仏になれるのだろうか」
真剣に思い悩んだ結果の問いのようでした。
私はこう答えました。
「あなたは自分のことを「どうしようもない」というが、その「
私の言いたかったことはつまり、自分をどうしようもないやつ、
ところが、この話をすると、私の「その「どうしようもなさ」
「しようもないか、それともしようがあるか、
私がもともと言わんとしてことは宗教でしたが、
私はこれころ本当の宗教だと思っています。
Why?には結局のところ、
以上、私の雑な感想です。乗り継ぎの合間、
互いに、より深く掘り下げるきっかけになれればと思い、
合掌
ネルケ無方
以上までが引用です。以下はばさばさのコメントです。
ネルケ無方さんからは、「宗教と倫理との連続性」についてのご指摘を頂きました。特に素晴らしいと思ったのは、以下です。
「Why?には結局のところ、
How?
「なぜ私は生きるのか?なぜ人は人を愛するのか?なぜ私はこんなに醜いのか?…etc」これら「WHY」の問いは、人に世界の深淵を覗き込ませます。
「なぜ?なぜ?なぜ?」と問い続ける限り、人は一歩も前には進めません。すべては謎・謎・なぞ…謎に包まれて、世界も生も居心地が悪い。
しかし人は、その「わけのわからない」世界にいつの間にか投げ込まれていて、「わけもわからず」生きざるをえません。
「わけがわからなくとも」、食って寝るために稼ぎ、食べ、休み、生きなくてはなりません。現実は待ってくれず、自分の命も刻一刻と短くなっていきます。
「生きねば!」とは言っても、
「わけがわからないけど生きている。わけがわからないけど、少しでも善く生きねばならぬ!」というある種の「納得/悟り」にたどり着くには、
「なぜ?」を全力で掘り進み、掘り抜いて、この「なぜ?」という問いをぶち破らねばなりません。
そうして「なぜ?」の世界を突き抜けたとき、そこには「HOW(どう生きるか?)」の世界が待っています。新しい世界、新しい生に入ります。
「なぜ生きる?」(WHY)
➡「わけはわからないが生きている」「生きねば!」
➡「この思い通りにならぬ現実の中で、自分はどう生き、何をするのか」(HOW)というわけです。
ネルケさんの言葉にもある通り、「WHY」の問いを底知れぬ深さまで問い続け、その人なりに徹底的に「納得」しない限り、「HOW」(どう生きるか、過ごすか、暮らすか)という新しい問いは、切実には現れてきません。
「理由はよくわかんないんだけど、とにかく、生きるしかないんだよなぁ…いやだなぁ…」なんて、不承不承に思ったって、また何かの機会に「WHY?」の問いが復活してくるように思います。
「よくわからんけど、とりあえず人のために生きようか…」といった中途半端な「納得」じゃ、ちょっとした苦難に見舞われてさえ、
「はぁ!なんで人のために生きにゃならんのだ!くそくらえ!」となるわけです。
決して思い通りにはならない、不条理な現実のなかで「生きねば!」と強く想い続けるには、「WHY?」の問いと徹底的に戦い抜く修行期間が必要なのだと思います。
どんな苦難に見舞われようと「答えはわかってるのだ、この現実で自分ができることをやるしかないのだ」と踏ん張る力です。
(クリスチャンの方々にとっては、「神が世界を創造したから、すべては善なのだ!」ということを、本当に本当に骨身にわたって浸透させることなのでしょう。
「なぜこんなことが?(why)」→「キリスト教の世界観自分の血肉とする」→人間には計り知れない神の叡智からすれば、この現実は善なのだ。」→「私はわたしのなすべきことをしよう(HOW)」という流れなのかなと思います。
以上、ぼくなりに倫理と宗教との連続性、というか、「WHYとHOWのつながり」を書いてみました。
ついでにいうと、ほぼ同時に出た『サンガジャパン』の30号に、「自己ぎりの自己と〈私〉の独在性」という、ネルケ無方さんと私の対談が載っています。まあ、だいたいのところ、それについての話です。
— 永井均 (@hitoshinagai1) August 24, 2018
主張されているのはあくまでも条件文であって、その前件も後件も主張されていない。しかし、「内山興正の画期的な見地」が仏教とは独立に感得されたものであることは間違いないと思う。おそらく何からでもなくただ端的につかんだだけのことだろう。人々は何かからの影響という話が好きだが。
— 永井均 (@hitoshinagai1) August 7, 2018
永井均ファンとしては、内山興正さんの著作も気になるところです。
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