イエスが私を愛してくれているということが信じられない
「キリスト教求道記」を始めてみます。
他の記事は、それなりの責任も意識して、他人さまにも見せられる質の記事を意識して書いているのですが、このシリーズでは、ぼく自身のキリスト教への歩みを思いつくままに書き残しておこうと思います。
あとから間違いだと気づいたり、矛盾することも多いかと思いますので、ご了承ください。お気に召さないことがあっても、ぼくなりの真剣な歩みなので、暖かく見守ってくださると嬉しいです。(ご意見、ご感想は、本当に欲しいです。信仰のあり方が全然変わるかも知れません。たたき台にして頂けたら嬉しいくらい。)
キリスト教の信仰、もっと広く、宗教への信仰の道とはどんなものかを知りたいという方へのご参考になれば幸いです。
心を鎮めたうえで、祈り、聖書を読むこと
ぼくはどのくらい信じているのか、何を信じているのか、それは自分にもわからないことだし、日によっても違う。
ただ3ヶ月は、朝と夜は必ず座禅をして、お祈りをし、それが全然嫌じゃないほどには信じている。(禅のときは、たいてい朝の座禅はかったるかったから、嬉しいことだ。)
始めは『日々の祈り』で、最近は『教会の祈り』を使って。(教会の祈りは、カトリックの知見をフルに活用して、キリスト教カレンダーに適した朝昼晩の祈りが載っています。ぼくもこれで一気に旧約聖書に親しみを持つようになりました。「カトリックは、祈り、ミサ等において生きたキリスト教信仰に触れているのだ!」と、岩下壮一が言っていたことを実感します。)
祈りといっても、朗読したり、ささやいたりだけれども。
今日思ったことは、メインの祈りの前にはしっかり座禅をして心をクリアにしなければ意味がないということ。
祈りの文言を読んだり、聖書を読んだりしていても、大抵は何かを考えつつ字面を追っているだけだ。ほとんど意味ない。イエスが批判しそうなことだ。形式的で、外面的な祈り。自分のプライド、メンツのための、儀礼的な祈り。
ミサの聖書朗読で、何度も読んでいる箇所なのに感動することがあるのは、ミサという状況においてはすなおな心で、まっすぐに聴くからだろう。キリストの身体としての教会だからこそ、なのかもしれないが、今のぼくはそうした霊性的な解釈に抵抗を感じる。だいぶなくなってはきたけども、今も恥ずかしさみたいなものがある。
要は、雑念という障害なしに、まっすぐに心に触れるような心持ちでなくては、いくら量を重ねたってなんにもならない。そうやって形式を重ねて、自分の鼻を高くしていくことには気をつけなくちゃいけない。
禅道場にはどれだけ天狗なやつがいたことか。禅で大切なのは、積み上げることじゃなくて、すべて捨て去って自分すらも忘れることであるはずなのに。禅は反省や内省をも忘れてしまいがちだからかな。野狐禅者は本当に、救いようがない、かわいそうになってくるくらいに。
キリスト教の場合でも、神に愛されるはずの「自分」、という方向性で「偉くなってしまう」人間もいるだろう。これが宗教の難しいところ、ぼくが本当に気をつけなくちゃいけないところだ。
イエスが私を愛してくれているとは…
話を戻すと、神と御子キリストを信じることが自分に必要であることは、おおむね信じている。昨日出エジプトとサムエル記を読んでいて、神さまがいるという感じも、なんだか内側から浸透してきている感じがある。これはおもしろい。
「神話」として切り離して読むのではなくて、「いまここにもおられる神」という連続性をもちながら、こうした本を読むというのは、未体験の面白さがある。
「どっかの神さま」の話でなく、わたしたちの神さまで、わたしたちの神さまが起こした奇蹟だと思って読んでいると、なんだか聖書という本自体も、粗末に扱っちゃいけない気がしてくる。前まではこんな意識はくだらないもんだと思っていたけど。迷信くさくて。でも今は、この本がここにある事自体も、とってもありがたいと感じる。こういう、訳がわからないけど湧き上がる感情は、きっと宗教においてはとっても大事だ。
いまの課題は、「イエスが先に私たちを愛してくださっている」(そして私たちのために十字架にかかった)ということ。こいつが、安心の核なはずなのに、さっぱり納得できない。
それでヴァルトルタさんの『イエズスの受難』を紐解いているけれども、まだ少し時間がかかりそう。これは素晴らしい本です。文学好きでキリスト教に興味を持っている人には超おすすめ。
この信仰に関しては、読むよりも黙想だと思う。禅の公案工夫っぽいもの。夜通し念堤(心の中で唱え続ける)し続けて、ある日ふと悟る系だと思う。そして気を抜けば忘れるやつだ笑。
もっと、内容への信仰が出てきたら、今やっている形式的な祈りも、もっともっと有り難いものになってゆくと思う。
でも、形と内容は同時に育てていくものだろう。このあたりは、カトリックカルメル会の奥村一郎さんの『祈り』にもあったな。祈りにおいては、形と内容どちらもおろそかにしてはならない。すべてを祈りにすると同時に、活動と切り離された瞑想的な祈りの時間もしっかりとらないといけないのだ、と。
当たり前のことなんだけど、宗教の領域は、誠実さゆえのおかしな極端さが結構あるから、大切だと思う。ぼくも例に漏れず、極端であるが。(奥村一郎さんは、禅からカトリックに、しかも老師の奨めで入ったというから、とってもぼくの性格にもあった本を出していて面白い。すてきな老師だ。)
「私たち、人類全部のために」十字架にかけられたのだという筋で、もっと深めていったらいいような気もするが、ほかならぬ「わたしのために」という要素もあるはずだ。まずは前者の信仰から、深めてみたい。
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