「この現実にはなんのロマンもない。俺に非日常をよこせ!」という嘆き
こんな嘆きがあなたの心にはないでしょうか。
世界の危機も、政治運動も、命をかけた戦いも、戦友も、なんのロマンも見当たらず、みじめな自分だけがただ暮らしているだけ…。
どうして現代には心を揺さぶるような、ロマンに溢れた夢がないのだろう…。みんな、一体何を楽しみに毎日を生きているのだろう…。僕も大学生のとき、心底感じていました。
「俺は平凡な日常なんて要らない、そんな価値のない人生なんて生きていたくない。
俺は何の価値もない日常を平気で生きているやつらが全く信じられない!あんなふうになってたまるか、俺はこの困難な世であっても、大きな夢を成し遂げてみせるぞ!」
そんな自分に読ませたかった本が見つかりました。
『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛著、早川文庫、2011年)です。
大きな物語なき現代において「いかに生きるか」、1990年代以降のサブカルチャーを批評しながら「ゼロ年代の想像力」として新たな生き方の可能性を探る本です。まず考えるのに必要な部分だけをまとめ、それから僕の考えを書きます。
引きこもる『エヴァンゲリオン』から美少女に肯定されるセカイ系
『エヴァンゲリオン』の碇シンジを宇野はこう捉えます。もはや社会には「大きな物語」(自分に確固たる役割を与えてくれる、みんなが認める世界観。)がない。
その絶望にナルシスティックに耽溺し、社会から逃げ傷を負った自分を認めてもらいたいのが碇シンジというキャラクターであった。この世界観においては、汚れた悪い社会で何かをすることは誰かを傷つけることだから、あえて「~しない」という引きこもりは一つの倫理でありえた。
それまでは「~する/~しない」という行為こそが自分の証明でもあった。
大きな仕事を成功させ立身出世を果たしていく自分、政治運動にコミットしている自分、いずれも「~する」行為者として、行為にこそ自分のアイデンティティを感じている。だが『エヴァンゲリオン』には、「~である」ということに承認を求める実存がいる。
親からの冷たい仕打ちなどの過去の精神的な傷をアイデンティティとして、自分を認めてもらうという生き方。
自分の内面を誰かに認めてもらうことによって自分の存在を証明する生き方である。
だがそんな引きこもり的な碇シンジといえども、劇場版ではなんとか社会(他者)と関わるという選択を選び、結果としてアスカ(社会)に「気持ち悪い」と拒絶される。だがそれこそが社会への行為であり、シンジは責任を伴う社会への行為を果たし、「拒絶」という反応をもらうことができた。
『エヴァンゲリオン』で表現された、「意味(物語)を社会が与えてくれないから引きこもる」という生き方は、その後セカイ系へつながっていく。(セカイ系:主人公の恋愛相手という小さく感情的な人間関係を「世界の危機」といった大きな存在論的な物語に直結させる世界観)。
セカイ系は、責任を伴う社会への行為を行うことへのひとつの反応であるアスカ(社会)からの拒絶を恐れ、母親的な愛を美少女に見それを独占所有するという自己慰撫にカジを切った。凡庸な主人公にイノセントな愛を捧げる美少女が自分の手を汚して決断を行い、主人公を全的に承認し、自己愛の全肯定という結果だけを都合よく享受する世界である。
デスノート、決断主義、自分の「小さな物語」のための戦い
さて、いまや時代は下り、デスノートに代表される決断主義の時代が到来した。「社会が意味(物語)を与えてくれないこと」はすでに前提となっている。
究極的には無根拠であることを知りつつも、人は人生に物語(意味)を求めるがゆえにあえて何かを信じ決断して生きるのが決断主義である。何が正しいのかは勝手に決めればいいし、その正しさはそれぞれの物語(価値観)の間の競争に成功し権力を得たものが決める。自分の決断は、別の決断をした他者を否定し傷つけることになるが、それを恐れて引きこもっていちゃ生きてはいけない、碇シンジでは生きていけないのだという世界観である。
筆者は、誰もが初めから生き残りをかけた競争に参加させられているという意識、日常的なサヴァイヴ感がゼロ年代の前提の感覚になっていると述べている。夜神月は「正義(大きな物語)」がないことに絶望して引きこもるのではなく、それを当然と捉えむしろ「新世界の神」という虚構の「小さな物語」へ向かって決断する(新しい歴史教科書運動などもこの流れ)だと宇野は考える。
自らが決断した「小さな物語」にそぐわない他者を排除していく決断主義。決断主義はその決断においてある意味で思考を停止(決断し迷わない)してはいても、その権力追求・夜神月は魅力的に映る。
ではこの「多様過ぎる選択肢の中から無根拠を踏まえた上で選択し、決断し、誰かと傷つけ合って生きていかなくてはならない」という現実、時代を祝福し楽しみながら克服するにはどうしたら良いのか。それをゼロ年代の想像力としてサブカルチャーを批評しながら探っていくのが本書のテーマである。
本ブログのテーマである、「現実をどう生き直すか」を今回はこの本をきっかけに考える。
わたしの「消滅」へ向かっている日常という最大の物語を直視する
筆者宇野が導いた答えの一つは、一見「平坦な日常」にこそ溢れている豊かな物語を見つけようという道だ。
「大きな物語」もないし、自分の「小さな物語」を競争に勝利し続けて守っていく、あるいは共通の「小さな物語」を掲げた小さな狭い共同体の中で承認されて生きていく、これら決断主義者の道を退けた先にあるのがこの道である。
毎日の日々は決して同じではない。一日一日が異なる価値を持った、本当は物語に溢れた毎日でありうる。私たちはなかなかそれに気づかず、自分で日常の中の豊かさ、物語を発見しようとてほしい。私達は生きているだけで物語(意味)に接している。
しかし物語(意味)が世界から与えられることに慣れすぎて、自分でそれを見つけ出す方法を忘れてしまった。
私たちはむしろ、大きな物語を失うことで小さな物語を生きることを思い出せるのではないか。自分で自由に日常の中に豊かな物語を見つけていける時代なのではないか、そう筆者は主張する。
本来、日常という「消滅」へ向かう最大にして最後の物語に対峙することを求めながらも、それを恐れている人間こそが、
それが手に入らないことに傷ついては「自分は非日常的なロマンティシズムがないと満たされない特別な人間だ」と(根拠もなく)思い込むことでプライドを保とうとする。
だが、彼らに必要なのは決して「非日常的なロマンティシズム」でもなければ「超越」でもない。肥大した自己評価を捨て、素直に自分の欲望と向き合う謙虚さでしかないのだ。そしてそれは、決して不幸なことではなく、むしろ私たちに与えられた最大の可能性なのだ。(pp.204-205)
宇野が「ゼロ年代の想像力」として発見していったいくつもの道、それを表現した作品の紹介についてはぜひこの本を読んで欲しい。サブカルチャーを舐めきっていた自分に気付かされる。
本ブログはこれまでのところから、「いかに生きるか」を考える。
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