「無、無、無…」無という一字に徹することが、この世界の真理(仏法)に生きることであると語る東洋思想は多いです。
東洋思想においてだけでなく、キリスト教中世神秘主義思想の筆頭に挙げられるマイスター・エックハルトも「神性の無」を言い、十字架の聖ヨハネも「無の道」を通らずには神に至れぬことを告げます。
ではこの「無」とは何か。何故「無」なのか。
どうして「無」なのか。「無」とは私たちにとってなんなのか。
柳宗悦の「宗教的『無』」を通して考えてみます。
心は自から無限を求める。これは私の行ないではない。何ものか抑え得ない力が心にかく迫るのである。
宗教心とはこの無限への憧憬であり帰依である。
総て信仰の感激はこの無限に交わる刹那の体験である。
宗教は密に絶対を抱く。絶対の直指にこそ宗教がある。(中略)
総て宗教的真理といわれるものは必ず絶対の俤(おもかげ)を伝えねばならぬ。
絶対の性を失う時、真理はすでに宗教の域を離れるのである。
かかる絶対の相を、われら祖先は、「無」或いは「空」と呼んだ。
もとよりその意は絶対と同義である。[1]
まず、柳にとって宗教とは「絶対・無限への憧れ」であり、無限・絶対に帰依することです。
この「宗教・絶対・無限」を示そうとするのが「無」や「空」という字であり、それは結局「絶対」を示すための記号、「絶対」を指し示すゆびに過ぎません。記号、指自体にはなんの価値もご利益もありません。
宗教とは、絶対・無限への憧れであり、その絶対・無限が「無」という文字にこもっている。
ではなぜ「無」や「空」という字・指を使うのか。
言葉は畢竟(ひっきょう)何事かを定義する。
定義は一個の局限である。何事かを断じる時、われわれは或る特殊の性質をそこに固定する。(中略)
さて、言葉が一個の限定であり、示された内容が相対であり、しかも必然一方の排斥に終るなら、いかにして無限であり絶対であり調和である至上の真理を示しうるであろうか。(中略)
いかばかり高遠な字句も畢竟相対の意に止まるのである。
相対的字義をもって絶対的内容を披瀝しようとする企てはそれ自身矛盾である。(中略)
宗教は言語を容れぬ。全ての言葉は不足である。
あらゆる断定はそれが肯定にしろ否定にしろ、むしろ神の名を汚すに過ぎぬ。
総ての言葉は中止されねばならぬ。
神は「至善」であるというよりも、「善ならずまた悪ならず」とこそ言われねばならぬ。
[2]
言葉は相対であるが故に、どれだけ言葉を尽くそうとも無限・絶対なるものを示すことはできない。
仮に、「この世界全て」を言葉でもって記述しようと考えてみてください。無限に果てが知れぬ宇宙をも含めて、です。
いかに言葉を尽くそうとも、記述し尽くすことはできない。決して「この世界全て」に追いつくことはできません。それはまさに無限です。
そして、この世界総ては片時も止まることなく、ずっと、動き続けています。
その全てを記述しようとするならば、この全宇宙の無限の過去から無限の未来に渡ってまでも、記述しなければなりません。空間的にだけでなく、時間的にも無限です。
そんな無限の「この世界全て」を、相対・限定たる言葉でもっては決して言い尽くすことができないのと「同じような隔たり」でもって、「絶対」は全く言葉を超えている。
言葉で捉えることなど決してできない。
否、「絶対」は全てを超えている。「対を絶している」が故に絶対なのです。(この辺りは柳宗悦『南無阿弥陀仏』にも鮮やかな説明があったと思います。)
そのようにして、言葉(という限定)をもってしては決して表現できない「絶対・無限」を指し示そうとしたのが「無」という一字であり、「宗教的無」というものだと、柳は言います。
一字「無」であると言ったのは、総ての言葉が不足するゆえである。
言葉を否定した無である。無とすら言いえぬその無である。(中略)
できうるなら、「無」の一字すら用いたくない。
「無」もまた仮名である。無に堕する時、人はその本意を忘れるのである。
「無」において総ては尽きる。廓然として取捨するところがない。
凡ては自然のままである。不二未分である。一つの思想だに入り得ない。
言葉すらないその境である。言葉以前である。
沈黙が「無」である。
「神についてわれわれが言いうる最良のことは彼について沈黙することである」と聖アウグスティヌスは書いた。(中略)
真の宗教は言葉を容れぬ。離言自証にのみその味がある。これが不言の言である。(中略)
無においては何ものの人為もない。
総てが自然のままである。ありのままにして完璧である。自然さのきわみである。
支えうる作為がない。何事も為さずして総てが為されてある。(中略)
無を観じる時、人は神の懐に休らいつつある。
神に帰るのが無の意味である。この刹那こそ言葉もなき法悦である。総ての文字も今は貧しい。[3]
無、無、無…。
この世界のあるがまま。この世界そのもの。無為自然。
なんて言っても、どうしたって伝えることなどできないから、古人は坐禅を組むなり山に籠もるなりして、「言葉なし」に生きること(修行)に少しでも近づこうとしてきました。
あるいは禅問答を通して、言葉の世界を越えたところに飛び出させるのです。
沈もうとする夕陽をみたり、えんえんと流れ続ける川の流れを感じたり、よせては返す波を眺めたりしているとき、フッ、とあらゆる言葉が溶け去って、絶対無限そのものである自分を発見することもあるでしょう。
そのとき人は、「無」(絶対・無限・神)に触れているのかもしれません。
しかし、何と言おうと、「絶対・無限・無」を語ることなど出来ません。
語れないこと、言葉にはできないことこそ、「真理」である。
「真理・絶対・無限」の前に沈黙すること。唯一字、「無」…。
「言葉」にして語れることは、ある意味全て、嘘である。仮のものである。
柳宗悦が教えてくれるこの「無」は絶対・無限を示すのだという視点は、「宗教」や東洋思想について考えるうえでとてつもなく大切だと思います。
上の2つの記事は、同じ時期に書き、だいたい同じことを言っている記事です。ご参考くださいませ。
[1]『宗教とその真理(柳宗悦・宗教選集第1巻)』春秋社,所収「宗教的『無』」1章より。
[2](同書,同章)
[3](同書,2章)
ものすごくわかりやすい。そして面白い。
ばさばささんは賢い方ですねー。
自分は禅の本を読んでるんですが、
禅のあり方とは、分析や知的把握の呪縛から逃れること、リラックスして自然に考えること、みたいな文章に救われました。
悩む30歳さん
ありがとうございます。
禅は、とてもシンプルな、
一つの生き方を提示してくれていますよね。
悩んでいても、悩んでいなくても、
いまをどう過ごすのか、
ということに目を向けるということ、
何遍聞いても、反省しきりです。
またお暇な時にいらしてください〜!
ばさばさ 拝