信仰とは①自分の幸せへと自分を賭けた決断。

なぜ神を信じるのか?神は本当に存在し、世界を創造したのか?イエスの復活を「本当に」信じるのか?・・・etc。
信仰に対しては、誰もが様々な問いをぶつけたくなることでしょう。
果たして、信仰はこうした問いに答えられなくてはならないのか?そもそも応えるべきなのか?

でも、信仰は、やはり、信仰です。
信仰は、理性のみによっては決してたどり着けないところへ向かって、跳躍することによって成されます。
万人が納得する形で「証明」されるわけではないことを、「この私が信じる」ことが必要です。信仰は万人にとって必然的なことではなく、この私の決断です。
「信仰は絶対者を述べたいと望むが、 理性は熟考を続けたいと望む」(キルケゴール) 。
熟考を続けたがる理性を抜け出して、理性で捉えられる領域の向こうにあるものへ、信仰の手を伸ばさなくてはなりません。
信仰が決断であるとはどういうことか、
その決断の正しさは何によって判断されるべきか。
信仰と現実の暮らしとの関係とは何なのか。考えてみます。

自分ではなく、神を中心とする生き方への決断が信仰

キリスト教(カトリック)イエズス会の百瀬さんは、信仰は理屈ではなく、ある「生き方の決断」であると、『キリストに出会う』という名著の中で鮮やかに述べています。

神さまを信じるということは実は理屈でなくて自分の生き方の決断なのだということです。
つまり、ひとたび神様がいると信じますと、実はそれは自分と切り離して考えられることではなくて、自分の生き方を変えるということなのですね。
自分と関係なく神さまがいるとかいないとかではなくて、私たちがひとたび神さまがいると信じるならば、その神さまを中心にした生き方をするということです。ですから、それはむしろ生き方の決断です。[…] もし神さまが存在しないとすれば、自分が偶然ここにいるのだとすれば、自分は自分の人生の意味を自ら獲得しなければならないでしょう。[…] しかし、神さまを信じる者には他の価値があります。神に喜ばれる生き方、神さまがこうして一人ひとりを呼んでくださった、そして造って下さった、その神さまのみこころにかなう生き方、それこそがいちばん大切になります。
何が神さまの前で価値のあることなのか、これが生き方の中心になります。それが生き方の決断ということですね。[1]

神がいると「信じる」ことは、「神は私に、神と隣人への愛を求めている」と信じることにそのままつながっています。
だから、「神さまを信じる」=「愛への招きを信じる」ことです。キリスト教の神・イエスが示す愛は、究極的には自己放棄的な愛、隣人のためには自分を押し殺す愛です。
神は私に、隣人を愛することを求めておられる。だから、神を信じることは、愛に向かって生きることです。自分ではなく神・愛を中心として生きることです。自分よりも愛を、神を優先して生きることです。
「神さまのみこころにかなう生き方、それこそがいちばん大切に」なる。
果たして、神を、そうでなくとも(神が求める)愛を、一番大切にしてこの現実を生きている人は、どれだけいるのでしょうか。
「神を信じる」ことは、「神・愛を中心にして生きる」ことです。多くの人は、これまでの生き方、これから先の生き方を、ひっくり返さなくてはいけないことでしょう。だから、信仰は決断なのです。決して無傷で行われるものではありません。
これまでの自分を殺して、神とともに生きる新しい自分を誕生させることなのです。必ず産みの苦しみを伴うものでしょう。
しかし、「産み」の苦しみに過ぎないと信じるからこそ、あえてその痛みをも引き受けようとするのです。だから信仰は決断なのです。

決断の正しさは、自分を幸せしたかどうか。

信仰は理屈でないとしたら、「信仰」、つまり「新しい生への決断」が正しかったかどうかはどのように判断されるのでしょうか。

神さまがいらっしゃるのだ、自分が神さまによって造られたものだ、という信仰をもって生きることを決断するときに、一つの新しい生き方を始めるのですが、その生き方が自分を本当にしあわせにするかどうかが、決断の正しさを検証するための鍵です。
その生き方をすることによって自分が本当に自由になり、心に喜びを感じ、愛と希望をもって人に接するようになり
そういうふうに生き方の質が変わってきたことを感じるとき、そのときに自分の決断が正しかったということを確かめます。
ですから、検証といいましたが、たえず自分の歩みをふりかえって確かめる基準は、自分がそれによってどれほど生かされているか、自分がそれによってどれほど成長させられているかだと思います。[…] 自分がそれによって本当に自由になり、それによってより大きな愛、より大きな希望をもつことができ、
他の人に対してもゆるしと和解を可能にする、そういった生き方ができるとすれば、それは自分の決断が正しかったしるしです。[1]

信仰が「新しい生き方の決断」である以上、その是非は「新しい生き方の質」によって決まります。
究極的には、その決断によって自分は「より幸せになったのか」です。
理屈はもちろん、人からの評価も、富・権力・地位の大小も、関係ありません。他ならぬこの自分が、以前よりも幸せになったのか、生き生きと毎日を生きているのか。希望を、勇気を、慰めを毎日新しく注がれて生きているのか。

この記事の冒頭で「信仰は理屈ではない」と言ったように、信仰は「他ならぬ私」のことです。私の問題です。自分自身の決断によって行われ、自分自身の判断によって完結します。
社会的・世間的に貧しくなったにも関わらず、その決断によってこの上ない幸せ・喜び・生きる希望を胸に生きることができるということもありえます
その人は自信をもって「あの信仰の決断は正しかった」と言うでしょう。彼は幸せになのですから、一体誰が彼に文句を言えるでしょうか。

仮に理屈や合理性が信仰の問題なのだとしたら、批判も反論も可能です。
しかし、信仰においては「その人の幸せ」が問題です。その人の幸せは、その人ものです。
基本的に、ぼくはあなたの幸せを直接感じることはできないし、あなもぼくの幸せを直接感じることはできません。
(人は周りの人や社会の内で、その一部として生きていますから、一人の人間の幸福が全くその一人の内に完結しているということはありえませんが。)
冒頭の問いに戻ります。
「なぜ神を信じるのか?神は本当に存在し、世界を創造したのか?イエスの復活を本当に信じるのか?」
「信仰は一人の人間が、自分自身の幸福を賭けた個人的な決断」です。だからこれらの問いに対しては
「私はそう信じることを決断したのです」とさえ言えば、十分なのです。
信仰は、理屈や、万人に対する説得力(本当らしさ)、「科学的客観性」の問題とは、関係ありません。
「信じるか信じないかは、あなたが幸せと感じるか次第であって、あなたの問題です。
私は信じることを決断しました。それで、以前よりも幸せに、希望を持って生きることができるようになりました。だから、私にとってこの決断は正しかったと思います。あなたにとってはどうなのか、それはあなたの問題です。あなたの幸せは、あなたが自分で試行錯誤して、試していくことだと思います。がんばってください。」
こんな応答が、誠実な応答なのではないかと、ぼくは思います。

信仰は、現実の暮らしの裏面

信仰は、私たちの毎日の暮らしとは切り離された抽象的なところで行われるのでもありません。
例えば「死んだら無になる」という一つの「信仰」は、「だから、生きている間にどれだけ楽しめるかが全てだ」という生き方(=生活)を支えています。「死んだら終わり」という信仰が、現実の暮らしの裏面にあって、表面の現実を支え、根拠付け、秩序づけているのです。
神を「信じる」こともこれと同じです。それは現実の裏面において行われることです。「自分を中心にして生きている」現実の裏面に、メスをいれることです。血が噴き出すでしょう。
問題は、その傷が癒えた後です。傷がふさがって、新しい生活が始まったとき、その新しい生活は自分を幸せにしているのかどうか
だから、信仰によって何が変わるかと言ったら、現実の暮らしの質が変わるはずです。決して、日曜日のミサの時間だけ家に帰ってお経を読誦している間だけ、癒やされるのではありません。
現実の暮らしの裏面にメスをいれるのですから、おもて面の現実全体が変わるはずです。自分自身が生まれ変わったのだから、現実ぜんぶが新しい色を持って見えてくるはずです。信仰を、「信仰」という人間の一つの領域だけに押し込めるべきではないと思います。
宗教の力はもっと、スゴいはずです。ただ自分の一部で納得するだけのものにしては、もったいないです。
もっと自分の存在ぜんぶを新しく生まれ変わらせてくれるようなものであって欲しいと、ぼくは思います。宗教の世界は、そこに深く自分を投げ入れれば投げ入れるだけ、より大きな恵みがかえってくるものだと思いたいです。

 

冒頭にカマした理性の限界と信仰(そこに「意志」がもつ役割)については、いつか記事でも紹介したいことです。
とりあえず、入門に適した2つの本を紹介します。
『カトリック入門-日本文化からのアプローチ』稲垣良典,ちくま新書,2016
副題の「日本文化」云々は、ぼくには期待はずれでした。
しかし、「超自然が自然である」というカトリックの際立った信仰観を、粘り強く、行けるところまで説明しようとしています。素晴らしいです。
「理性のみではたどり着けないことを信じる」とはなんなのか。哲学的な思考についていく力が必要ですが、食らいつく価値はあると思います。これらの点で読みたい方は、1章は飛ばして2章から読み始めて良いでしょう。

●本記事の引用図書と同じ方が書かれた『キリスト教の輪郭』も、キリスト教(カトリック)の誠実な入門書としておすすめです。
全国学校図書協議会の選定も受けているようです。百瀬さんはカール・ラーナーの研究もされていますが、わかりやすい文章もかけるというスゴい方です。

【引用文献】
[1]『キリストに出会う-聖書の学びと内省』百瀬文昇,女子パウロ会,2001

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ABOUTこの記事をかいた人

20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。