一切は空であり、風を追い求めるに等しい。
小説も、仕事も、文章も、生活それ自体も、
ぼくが生きているということそのものも、
世界が在るということも、空である。
必死に頑張って、それなりに、生きがいや満足を感じていた。
多種多彩の実りの風が、生活を流れていた。
そのはずなのに
風がやみ、流れがとまり、照明が落ちて、色を喪う。
がらんどうのスタジオが、薄暗い。
一体じぶんは、何を必死に頑張ってきたんだろうか
何をあんなに喜んでいたんだろうか
砂のお城がさらさらくずれて
風に吹かれてちってゆく
砂漠に映る自分の影を見ている。
すぐにドアを開き、光をいれ、新しい風を招きたくなる。
何らかの意味を、重みを、ここに与えたくなる。
砂ではないものを、湿ったものを。
でもそれでは、何の解決にもならないことが、わかる。
一切空なるナマの事実は、あらゆる意味を抜け出して、ただ、在る。
ピカピカに磨かれた、鉄壁の要塞、一切は空である。
ここから動いちゃいけない。一切空を離れちゃいけない。
何も始めてはいけない。
意味があると思って、重みがあると思って、
しちゃ、いけない。
ハナから、何の意味もない。ぜんぶ想い込みに過ぎない。
自分が 一切を 無意味に 丸呑みする 穴になる。
喜びも かなしみもない ただの 空洞 がらんどう
ああこの穴よ!私よ!
世界に色をつけてやるな!
色を失った世界にしばし留まれよ!
喪った色とは、妄想の色。
崩れたのは、妄執の山である。
おれの世界が死んだだけ。
自分が色を塗ってきた世界、自分がそうと想い込んできた世界。
わがままな配色のおれの世界。
おれの世界はその虚無を暴かれたが、
世界じしんには、傷一つついちゃいない。
ならば今、世界がモノクロに見えることは、
一切の終わりではなく、一切の始まりである。
妄執よりすれば白黒にしか見えぬ虚無の、世界じしんこそ、
世界自身が秘めていた色がにじみ出す、素地なのだ。
しかしここでおれの世界は、
絶望という最終兵器を持ち出してくる。
「あぁ!全ては無意味であった!徒労であった!」
おれの世界はそう嘆きつつ、歪んだ笑みを浮かべている。
この世で一番醜悪な、自己愛の笑顔である。
そんな悲劇のヒロインを辞め、一存在者に戻ることは、難しい。
彼女は、自分の甘いあまい「絶望」を喪いたくないからだ。
いつだって、主役でいたいからだ。
おれの世界が世界の全てであって欲しいからだ。
たとえ自殺をしようとも、おれの世界は自殺しない。
おれの世界は、おれの世界であることをやめたくないから、
おれの世界を、おれの世界のままに、終わらせる。それが自殺だ。
おれの世界が、新しく生まれ変わることを拒絶して、自殺が起こる。
新たな世界の誕生・新生を防ぐため、おれの世界は自殺する。
自殺することで、おれの世界はおれの世界のままに、
誰にも汚されることなく、変化させられることなく、
永遠のときの中に消え去ってゆく。
おれの世界の永久保存を夢見て、人は自殺する。
世界じしんの酸素を受け付けないおれの世界は、
おれの世界に窒息死する。
世界じしんを拒絶して、笑顔で死んでゆく。
それが自殺である。
おれの世界を手放せば、絶望も手放すこともできる。
絶望なんて、おれの世界を圧倒的な力で振り払ってしまう、
世界じしんへ向かっての、ぶうたれた不平に過ぎない。
世界じしんを呪わずに、ゆるし、受け容れて、
世界じしんと交わることができれば、おれの世界も新しい形で、存続しうる。
世界じしんとおれの世界は結婚し、新たな1つの世界が生まれうる。
交わらぬ限り、新しい家庭は生まれない。
おれの世界は、実はちっぽけだ。
そのことを悟られぬように、おれの世界はあの手この手を使って、
おれの世界の絶対性を空しく主張してくる。
おれの世界はこの世の全てだぞよ。
おれの世界以外に、信じられるものなんて、この世にはないぞよ。
おれの世界を棄てたらば、あとには何も残らないぞよ。
おれの世界を味わうこと以外に、人生なんてないぞよ。
おれの世界を許さないあっちの世界のほうが、間違っているぞよ。
騙されちゃいけない。
おれの世界なんて、棄てっちまえば良い。
おれの世界を投げ捨てたその手には、既に世界じしんが握られている。
そこで、ようやく、世界じしんと対面する。
一見、すべての意味と色とを喪ったように見える世界を、生活を、
じっと、見つめ続けるのだ。
すると世界は、自(おの)ずから、動いている。
世界はじしんで、生きている。
おれの世界という妄想世界とは一切関わりなく、関係なく、
自らの心臓を持ち、自らの鼓動によって、生きている。動いている。
自分の血をあまりにも豊かに、細やかに、めぐらせている。
地面に目をこらして、小さなありや、アブラムシや、
突然ぴょんと跳ねる肌色のアイツらがいると気づくみたいに。
窓の外を見てみると、電線にすずめが留まって、重たそうに、沈んでいる。
電線はすずめの存在を、その重みを、支えている。
なんてことない街路樹の葉をちぎって、
裏から太陽に透かしてみれば、神の手が、葉を支えている。
世界が、世界じしんとして今、ここに現成する。
私なんてすっからかんに、ただそれをみつめているだけだ。
すずめの現成を、電線の現成を、世界じしんの現成を、
1つの身体そのものである一枚の葉っぱを前に
言葉を失っているだけの、穴。
世界は世界じしんで、生きている。
おれの世界が知らなかった、おれの世界の意志など何一つ及ばない、色。
その色は、おれの世界には映らなかった。
しかし、初めからずっと、ここにあった。
In the beginning God created the heavens and the earth .
原始(はじめ)に神天地を創造り給へり。
In the beginning 原始に。
おれの世界が生まれる前に。私以前に。
常に既に私に先んじて、世界は向こう側から、創造されつつある。
おれの世界と、世界じしん。
おれ以前に世界はあったのだ。
常に既に、おれの世界の裏に、おれの世界の向こう側に。
次第に見分けがついてくる。
おれの知らない、新しい、世界じしんと邂逅する。
これを「希望」と名付けたら、またおれの世界の勝手なわがままに引き寄せられていく。
世界じしんに希望も絶望も、幸せも不幸もない。
世界は世界じしんとして、既に絶対的な肯定そのものである。
然りそのものである。それが現実というものである。
現実は現実であることによって、おれの世界を一撃粉砕する肯定である。
おれの世界にできるのは、悪あがきとしての自殺か、引きこもりか。
「一切空なり」が、「我が一切は空なり」に変わる。
おれの世界を満足そうに眺めるのではなくて、
世界じしんを、世界じしんとして我が内に写し取ること。
世界の流れの内側から、世界を感じること。
世界の個物となって、世界をみること。
我が一切空なるがゆえに、世界じしんを世界じしんとして、
我が内に現成しうるのである。
世界を我が内に映し込むことができるのである。
おれの色を持たぬが故に、自発自展する世界を、
我が内に、無傷のままに、容れられるのである。
おれの世界にとってなら、世界じしんは、一切空は、
絶望でしかありえない。
しかし、世界じしんに即してみたとき、
希望も絶望も、私も彼も、おれも神も、ない。
なんにもない。
唯自ずから世界じしん、である。
自己を忘れること、こだわりを捨てること。
裸一貫で、実は世界じしんの内にちっぽけに立っているだけの自分に気づくこと。
世界じしんの内側から、内在者として生きること。
おれの世界のために生きてはならない。
おれの世界なんて、おれの下らない脳みその中にしか無い。
この世界は、おれの世界からではなく、
世界じしんに即して生きられるべきものなのだ。
一切空なる世界を、自分の内にとって返して、
我が一切は空なりの風として、世界じしんを吹き抜けてみよう。
いのちあふれる世界を、神の内を、泳いでみよう。
そこに本当の自由がある。我が一切空なるが故の自由である。
私の自性とは、自性を持たぬことである。空こそが私の自性である。
私は空であるからこそ、自由そのものなのである。
一切は空であり、風を追い求めるに等しい。
風を追い求める風であるとき、我は自由そのものである。
その自由において、空においてこそ、私は真に私なのである。
一切空は私そのものなのだ。
一切空は福音なのだ。
私は一切空でなければならない。
一切空であることこそが、私の存在である。
一切空なる絶望は福音なのだ。
この良い知らせに、耳を塞いではならない。絶望ごっこをしてちゃいけない。
自分こそが、一切空になり切るのである。
我が一切は空なりとして、世界そのものと1つになるのである。
そのとき私は、世界じしんとなる。
天地我と同根、万物我と一体。
我空なるが故に、万物自ずから現成す。
世界は向こう側から私を照らしている。
おれの世界という壁を作らずに、
私は照らされるままに、世界を我が内に現成させねばならない。
ここに能所の区別はない。
そして、向こう側からやってくる世界じしんの彼方には、
この無限なる世界じしんを今も創造し続けておられる、神がいる。
世界は今も創造されつつ在る。
私は世界じしんの前に、神の前に
無であらねばならない。おれの世界を棄てつづけねばならない。
そうして遊ばねばならない。
空なる世界の内で、空なる我として、
一切空とともに、遊ばねばならぬ。
それだけが、私の務めである。
一切空なる絶望は、福音である。
ご無沙汰しています。
先日この文章を拝見して、自分の関心と重なる部分が大きいので、またあらためて向き合いながら、思うところをコメントさせていただきたいと思っていました。
またお話しさせていただきたいとも思うのですが、まずは文章の形で意見を書きたいと思います。少々批判的な部分もあるかとも思いますが、なにかにつながればとも思っています。
まず、この詩を自分なりに解釈・要約すると次のようなものになると思います。
◇
一切が空だというところにたどり着くまでの私の道程は、「生きがい」や「満足」といったものに彩られた「意味」や「色」といった「妄想」への「妄執」に始まる。
あるとき、そのような「意味」が本来存在しないという「虚無」の事実に気付いた私は、幻想的な充実感に戻ることを拒みながら、私という「無意味の穴」にすべてを飲み込もうとする。
しかし、そのとき私は、そのような、私によって塗られた色を失った世界の向こうに、「モノクロ」の「世界自身」を発見する。
この「世界それ自体」は、小さな私を超えたところで、私以前にすでに、そしてどんなときも常に、私を包み込みながら、意味を超えて存在している。
しかし、まずはそのことは、小さな私の自我にとっては脅威だ。この虚無への絶望にもかかわらず生き残った、「自分の世界」に固執する自我は、この、エゴの解釈による意味の世界を外から圧倒的な力で否定する「世界自身」を拒絶し、その行き詰まりの果てに、「おれの世界」を保存したまま自殺することができる。
だが実際には、世界自身は、おれを私に、自我を自己に、生まれ変わらせるような福音だ。自我の世界を否定する、「おれ」の意志の及ばない、無意味な世界は、実ははじめから独自の色を持った絶対的な肯定(然り)として、ただある。
それに気づき、己を無にし、自己を空しくして、世界それ自体を自らの内に映すこと・写すことによって、私は、本来の世界と邂逅する。
世界の無意味、空としての世界という現実は、同じように空となった私自身を照らす光として生まれ変わる。そのときにはすでに、私と世界、自己と他の区別はなく、「私の行為」も「世界の自発自展」として、能所の別もない。
そのときには、世界を常に創造し続ける神と、世界それ自体と、私はひとつであり、それが私の自性、空としての真の自己なのだ。
私は、そのような真の自己でありつづけなければならない。それが私の、本来の、ただひとつの、務めである。
◇
…と、まとめ終わってみると、いろいろ疑問が変化したというか、少々疑問の形が変わったような気もします。
ただ、その核心部分は変わっていません。それは、このように自己を空にして生きることは果たして実際に可能なのかということ、そして可能だとしたら具体的にどのようにして可能なのかということです。また、個人的な関心に引きつけて言うならば、「意味」ということの解釈、「意味」という言葉の使い方に関して、少々意見を言わせていただきたい面があります。
後者からいきます。
この詩においては、「意味」はもっぱら、自我(エゴ)による恣意的な世界への意味付け、つまり主観の欲望の相関物に過ぎないものとして捉えられていると思います。
しかし、「生の意味」の捉え方は、それだけではないと思います。むしろ、主観が創り出すものではなく、主体が主観を超えた客観的な世界、ここで言う「世界それ自体」に近い方の側に即して、そこから見出していくものとして「生の意味」を捉えるのが、本来的であるようにも思われます。
しかし、ここで「意味」と言ってしまうと、やはりそこには当為的・要請的な性格、倫理的な要素が入ってきて、それはつばささんの言う「一切空」にそぐわないようにも、まずは思われます。
しかし、つばささんの「一切空」も、「人のため」「他者のため」「誰かのため」ひいては「世界の存在のため」に生きるということを排するものではないと思います。
おそらく一切空は、(結局自己中心的な意味付けだから)「利他も無意味」「誰かのために生きても、結局なにもかも無意味」という形のニヒリズムではないのではないかと思いますし、「超然とした世界の傍観者となれ」という世界から遊離する立場でもないでしょう。
そして、そのように「自己の外から与えられる意味」を実現することは、「意味についてもはや考えず」、「自らを空じて世界を映し」、そうして「主客を超えた場において行為する」ということに通ずることを意味しえるようにも思います。
意味の根源としての神はそこにおいて「はたらき」、それを通して本来の自己が実現される。そう捉えることも可能なのではないかと思います。
ただ、これは単に言葉上の話なのかもしれません。
しかし、それ以上に個人的に問題だと思うのは、やはりこのように語ること、そして語る内容が、非常に理念的・理想的で、自分が生きているこの場に即したものと感じられないということです。
昨日も職場でいろいろなことがありました。そこには「小さな自我によってはどうすることもできない」「社会の圧力」があり、その「むき出しの世界に翻弄され」ながら、「ある面を切り取ればよくないこととも思われかねないような仕事」をしました(「翻弄された」とか、「よくないこと」いうのは、結局自我の色メガネによる解釈なのでしょうか?)。
その中でさまざまなことを考えました。そこには意識せずとも、「すべては無意味ではないか」という思いの中で、かろうじて「他者への応答責任」を果たしていく自分がいました。そこで考えたこと、そこでした具体的処理や、それにまつわる人間関係の中で起こったことなどを解釈しながら行為せずにはいられないこと、それらのことは、上記のような理想的である種の境地を表現したような内容とはかけ離れています。
しかし確かに、その行為の基底に「すべてのことの無意味」と「かすかな他者への応答責任の意味」の葛藤があるという点では、上に表現された過程の一部を僕自身も生きています。だとしたならば、日々を生きながら、空にも生きることは、原理的に可能なのでしょうか。
しかしやはり、そこでは自我をまったく無にし、空じて、そうしつつ、例えば苦情に対応したり、同僚間のトラブルに対処したり、企業の利益に関わる雑多な書類をそれに見合った形で処理したり、ということは限りなく困難である気がします。「自己を空じた政治家」は可能でしょうか。もっと極端に言えば、「自己を空じた詐欺師」は可能でしょうか。
われわれはしかし、それにも通じるようなグラデーションのある現実を生きています。その中で、「世界そのものを自己に映す(客観的意味の実現)」こと、そしてそれを通じて「自己の根底に神を見る」ことや、(自分の関心に引きつけるならば)意識的な面で「絶対的意味を信じる」ことは、いかにして可能なのでしょうか。坐っているときだけは可能なのでしょうか。
「絶対的意味を信じる」という、詩の内容に一見相反するようなものが出てきました。
しかし、われわれはなんにせよ、生きている以上、生を意味づけて生きています。意味の中を生きていると言った方が適切でしょうか。
だからこそ、自我に引きずられてむき出しの世界を「希望と感じてはならない」という自己への戒めもそれとして機能するわけですし、一切空とともに遊ば「ねばならぬ」という強い当為意識も出てくるのではないでしょうか。
こうやって生きながら言葉を紡ぐとき、そして言葉を発せずとも生きてゆくならば常に、そこには必ず立ち上がってくる自我的な自己があり、それをまったく消し去ることはほとんど不可能なのではないでしょうか。
実際、この詩で「むき出しの端的な世界」の理解を目指す姿勢は、この思想がおそらくは否定するところの、「世界の究極的な意味の認識を求める姿勢」とどこか通じる面があるようにも思えます。
それはどちらも捉え方によっては自我による自我のための自我からの解放を目指す試みであり、逆に言えば、本来私がそういったものを欲せず、かつそれは事実としてわれわれの生の根底にはたらいているならば、べつにそれを「自覚せねばならない」こともないはずです。
個人的なことを言うならば、僕はやはりそういったことによって自己を救いたいという気持ちを捨てることができない。
それは実存的窮状にあればあるほど高まる欲求であり、実際に僕自身はほとんどいつもそのようなギリギリのところで生きています。
こちらから見ると(これは嫉妬や嫌味のつもりではありません)、つばささんは比較的そのような精神的苦境を生きているわけではなく、ある程度余裕のある立場から問い、求めているようにも思われます。
だからこそ、このような文章をどう理解したらいいのかも問題になり、そこで僕が躓くということも起こってくるのではないかとも思われます。
さしあたり、このぐらいにしておこうと思います。よければぜひまたお話しさせてください。納得はいかないながらも、この詩と向き合う時間は「有意義」だったようにも思います。ありがとうございました。
だいちさん
いつもコメントありがとうございます。
とても有り難い刺激を頂いています。
①「「生の意味」の捉え方は、それだけではないと思います。むしろ、主観が創り出すものではなく、主体が主観を超えた客観的な世界、ここで言う「世界それ自体」に近い方の側に即して、そこから見出していくものとして「生の意味」を捉えるのが、本来的であるようにも思われます。」
この点はぼくも同じように思います。
ぼくの想像では、世界じしんが自ずからなる意味をもっており、私は、その世界じしんの一部であるからこそ、「世界じしんの意味」を探ろうとするのだと思います。
しかし、ほとんどの場合、
その「世界じしんの意味」を把握することはできずに、
「おれの世界」の意味に、誤解してしまう、誤って解釈してしまうのだと思います。
更に言うなら、「世界じしんの意味」は人間の言葉ではないと思いますから、意識によって言語的に捉えることは不可能なのではないかと思います。
「万物自から声あり。万物自から声あれば自から又た楽調あり。」と北村透谷が『万物の声と詩人』で言っています。
この声は「楽調」であり、音楽のように、言葉にすることはできないのだと思います。
しかし、自己意識は言語を使うしかないので、「世界じしん」は自意識によっては捉えられないのだと思います。
人間の意識は、世界じしんの声に、人間的な言語を重ね塗りすることしかできないのだと思います。
とはいっても、頭で理解することなしに、世界じしんの声を行うことはできるとも思います。(西田幾多郎の言う「行為的自己」、思考以前に行為する、行いとなっている自己のことではないかと感じます。理解や思考の後に「選択」によって行動する人間観とは異なります。)
では、「人間の言葉は無意味なのか?」というテーマに関しては、井筒俊彦の『意識と本質』がとてもよく論じているのではないかと思います。
だいちさんの問題意識と重なる面が多いと思います。ぼくはあまり読めていませんが、ぜひお読みになって見てください。
また、ぜひだいちさんにおすすめしたいのが、南直哉さんの『正法眼蔵を読む』です。
言葉の無意味性を知った上で、言葉を使う。空即是色が意味するところだと思います。
禅的?な言語観がとてもわかりやすく描かれています。
「一切空から発話される言葉」は、それまでの「言葉」とは全く違うのだと思います。
「世界じしん」という縁起によって織りなされる全体性は、もとよりなんの実体もあり得ない。言葉はその全体性を、諸要素に分解して、組み合わせているだけ。
だから言葉なんて、どうとでも使える、そう思って、言葉のもともとの意味をずらしたり、崩壊させたりして使うことができる。
「山は山ならずして山なり」とかは、そういう動きを指した発話なのだと思います。
なおこの本は、「世界じしん」的な本質・実体を一切退ける『中論』的な立場であり、そのあたりもだいちさんの参考になると思います。(禅・東洋思想も、様々な解釈がありえます。)
南直哉さんにとっては、「真の自己」も「悟り」も、なにもありません。
②「このように語ること、そして語る内容が、非常に理念的・理想的で、自分が生きているこの場に即したものと感じられないということです。
それらのことは、上記のような理想的である種の境地を表現したような内容とはかけ離れています。
「自己を空じた政治家」は可能でしょうか。もっと極端に言えば、「自己を空じた詐欺師」は可能でしょうか。
そこには必ず立ち上がってくる自我的な自己があり、それをまったく消し去ることはほとんど不可能なのではないでしょうか。」
だいちさんのおっしゃるとおり、
自我を空ずることは、ほとんど不可能だと思いますし、ぼくのこの文章は全く現実生活から遠いものだと思います。(「離れた場所から現実生活を観る」からこそ、一切空と感じるわけです。この文章はそのあとの話です。
そこから、「現実・日常生活の相」ではなく、「世界じしんの相」からこの現実の事物と出会っていくという話です。)
ぼくがこの文章が示すところを生きているなんてことは、全くありません。
このぼくの文章自体、ここ半年で一番深刻なくらい、「一切が無意味」だと感じていたときに、絶望的な気分で書き始めたものです。
ある怠惰な休日に、何の光もないなか書いているときに、窓の外に雀がとまって、電線がずしりと沈んで、それから、「世界じしん」の存在が「すべてが無意味で徒労に見えるおれの世界」の内に、息を吹き返してきて、
それで、あぁ、この絶望は「おれの世界」の崩壊にすぎなくって、めでたいことなんだ。
とひらめきながら、書いていきました、それがこの文章の素地です。
だから、ぼくが普段思っていること、考えていることではありません。(そもそも、〈頭で理解して、考えて生きる、行動する自己〉という人間観に、ぼくはとても違和感を感じています。)
暗闇に沈んで行って、「ここから動いちゃいけないな」と思いながら、
書いていったら、「あ、なるほど」とちょっと光が見えたみたいな文章が出来上がったというだけです。
そのちょっと見えた光を共有して、読者に何かを与えられたらと思って、何度か推敲して載せたものです。
ぼくがこのブログに載せている記事は読者に「ハッ、とするきっかけを提供する(できれば何か行為が変わるような)」ことを目指す意識が強いと思います。
そしてそれは、論理的な説得ではなく、直感的な説得や、後押しを目指しています。
読んだ人が、ぐるぐる考えあぐねている自分を吹っ切って、
「ごちゃごちゃ悩んでないで、生きなくちゃな」と思えるような記事を書きたいと思っています。
③「それは実存的窮状にあればあるほど高まる欲求であり、実際に僕自身はほとんどいつもそのようなギリギリのところで生きています。
こちらから見ると(これは嫉妬や嫌味のつもりではありません)、つばささんは比較的そのような精神的苦境を生きているわけではなく、ある程度余裕のある立場から問い、求めているようにも思われます。
だからこそ、このような文章をどう理解したらいいのかも問題になり、そこで僕が躓くということも起こってくるのではないかとも思われます。」
ぼくが思うのは、だいちさんはこのブログの記事を、深く読みすぎている?論理的?(正解的に?う)読みすぎているではないかということです。
うまく説明できないので、あえて比喩的に言うと、このブログの文章は、
尖った竹槍のようなものであってほしいと思っています。
なにかもやもやしたものを、読者がそれを使って一突きできれば良いです。
それでもう捨てちゃえばよいです。
ぼく自身もそんな感じで書いています。書くことを通して、ぼくの目の前にあるもやもやしたものを一突きして、それでおしまいです。
人によって、状況によって、使える竹槍もあれば、使い物にならないものもあると思います。
そんな粗末な竹槍ですから、「この竹槍のここはどうなのか」といったような疑問には、僕自身も答えにくいです。
竹槍に求められているのは、何かを一度でも突くことだけです。それで壊れてしまってもよいのです。少しの間戦うことができれば十分です。
ぼく自身が、正確に、論理的には考えていません。ただ何かを一突きできる使い捨ての竹槍をこしらえているだけです。
一突きできればそれで良いし、そのために論理性や正確性はむしろ邪魔なのだと思っています。
ぼくから見ると、だいちさんはそんな竹槍なんぞではなく、
戦艦か、あるいは要塞を作ろうとされているように感じます。
どのような状況にも対処できるようなものを求めておられると思います。
「このような文章をどう理解したらいいのかも問題になり、そこで僕が躓く」
とありますが、
この文章はやっぱり竹槍なので、理解するようなものではないし、使えないと思ったら、「なんだこれ」と無視してしまえば良いと思います。
こんな文章にわざわざ「躓く」価値なんてないと思います。
もっと躓いて、取っ組み合うべき文章がたくさんあると思います。
(例えば西田幾多郎とか西谷啓治とか、上田閑照とか、人生をかけて考え、書いている人たちの言葉です。)
他にも、書きたいことはたくさんありますが、どう書いてもうまくいかないので、
これ以上はまたお電話で話しましょう!
ばさばさ 拝
【…マーヒーヤ、フウィ-ヤ …】の[眺め]で,数の言葉ヒフミヨ(1234)を句や絵本で・・・
禅の庭ヒフミヨ言葉公案す
□とはながしかくから創り出す
〇□πと1とを創り出す
ヒフミヨは〇と□のなぞり逢
ヒフミヨはもろはのつるぎ絵本あり
√6〇÷□ヒフミヨに
√6△◇数の軸
ヒフミヨは△回し◇なる
絵本「哲学してみる」
絵本「わのくにのひふみよ」
絵本「もろはのつるぎ」
絵本「みどりのトカゲとあかいながしかく」
絵本「こんとん」
数の言葉ヒフミヨ(1234)の十進法の基における桁表示の3・4桁の【カプレカ数】の≪…曼荼羅…≫を【セフィーロート】に観てみたい・・・
桁ごとに次元が宿ると観てみると、1~10(0)の意味が、そうかなぁ~と想えてくる・・・
1 「ケテル」 至福
2 「コックマー」 知恵
3 「ビナー」 理解
4 「ケセド」 慈悲
5 「ゲブラー」 厳正
6 「ティフェレト」 美
7 「ネツァッフ」 勝利
8 「ホッド」 栄光
9 「イェソド」 基礎
10 「マルクト」 王国
3桁のカプレカ数の収束循環
963-369=594
[基礎]を[美]に[理解]は、[理解]こそ[美]に[基礎]あり。
[厳正」は、[基礎]に[美]をモツ。
4桁のカプレカ数の収束循環
7641-1467=6174
[勝利]の[美]に[慈悲]の「至福]は、「至福]の[慈悲]に[美]の[勝利]あり。
[美]は、「至福]を生み、[勝利]から[慈悲]を生む。
【「意識と本質 ー精神的東洋を索めてー」】からの送りモノの作文です。
1月7日は、井筒俊彦忌 に献・・・