現実を離れた「生きる意味」を問わないこと―『超越と実存』南直哉

『超越と実存』哲学者みたいなお坊さん

哲学者みたいなお坊さんが、南直哉です。
まずタイトルから『実存と超越』とは、哲学書ですね。僕も哲学書だと思って立ち読みし、すぐ買いました。この本で南直哉は、そもそも仏教の本質とは何かを徹底的に突き詰め、攻めの姿勢で積極的に語ります。
今回はこの哲学者みたいな坊さんが語る「仏教とは何か」を見てみましょう。
現実を離れた(超越してしまう)一切の問いを退け、頭の中ではなくこの現実にあるもの(実存)の領域に留まるという立場、これが仏教だと彼は語ります。

「超越」を求めず、「実存」に留まる仏教

彼の言う仏教の核心を一言で言えば、「超越を求めない」だ。
「生きる意味とは」「自己とは」「人生とは」「悪はなぜあるのか」「なぜ苦しいのに生きるのか」・・・etc。
これらの問いはすべて、目の前の現実に存在するものではない。
頭が作り出したものだ。つまり実存していない、「超越」である。これらの問いは、現実の根拠を求めるもの、「超越」を求める問いである。人は理解できないことを恐れ、現実がよって立っているところの根拠・理由をどうしても求めてしまう。それが人情だ。
しかしこの問いは欲望であり、根拠を求める欲望こそが悩みの一つの根源である。仏教の核心は、この「超越を求める問い」に答えないという革命的な方向を打ち出したことだ。

「生きる意味とは何か」という問いには答えず、「どう生きるか、どう在るか」へ取り組むのが仏教。この点で、この本が仏教への興味のあるなしに関わらず、「現実を生き直す」ヒントになるのだ。では、詳論する。

人は根拠・理由・超越を求めてしまう。

先述の通り、仏教は「超越」を求める問いに答えないという方向を打ち出した。
西洋哲学にしろ、仏教以外の宗教思想にしろ、「超越」を求めてきた。「世界の創造」やら、「世界の根本原理」やら。これを個人レベルで見れば「生きる意味」や「善とは何か」など、現実を根拠付けるための、現実を超越した観念である。
人間は根拠=超越を求めてしまう生き物である。現実を根拠づけたいのである。わけも分からない世界で生き続けたくはない。真理に基づいたと考えられる、確固たる、安定の、間違いのない生き方をしたいのだ。
しかしその試みはすべて、現実を離れた説明を生み出す。
この目の前の、〈食っては出す生の現実〉を離れた説明を生み出す。どうしたって現実を超越してしまう。
仏教はこの超越を認めず、この目の前の現実に留まるのだ。
超越を拒否して実存に留まり根拠なしに目の前に広がっているわけのわからない現実(実存)をそのままに受け容れる。
その上で、ではどのように在るのか、という在り方に取り組んでいく。そしてその手法として禅定(座禅)が打ち出される。禅定は言語をストップするからである。
ではなぜ言語をストップしなくてはならないのか。そもそも言語こそが超越だからである。

注意
これ以降は難しく説明も下手なので、一気に最後の章まで飛ばしちゃうことをおすすめします!

言語=超越の問題。自己の実体視。

(次の二節は難しく説明も下手なので、ややこしいことが嫌いな人は飛ばしてください)
人は言語を用いるが、この言語がそもそも超越である。
例えば「コップ」という言葉がある。しかし「コップ」の本質といったものは存在しない。あるのはただ「コップ」としての使用という生の事実だけである。それは私とそのもの(コップとされるもの)との関係の仕方に過ぎないのであって、私を離れてコップはありえない。しかし人は「コップ」という言葉で「コップ」がそれ自体で実在すると考えてしまう。世界は言葉によって区切られ、秩序づけられる、とよく言われる。言葉以前の世界、超越なき世界は一切の分別がない世界、混沌の世界である。
この言語による分節以前のところでは、「コップ」としての使用という事実のようなものは確かに世界に在るが、「コップ」それ自体が世界にあるわけではない。「コップ」というものが独自で存在しているというのは、言語による世界の分節化理解が生み出した錯覚である。
つまり言語以前のナマの現実のところには、「コップ」としての使用だけがあるのであって、「コップ」なんてものは存在していない。しかし普段自己は言語によって分節化、実体視された世界の中を生きている。
言語が意味するところのものが実体として実在するという錯覚の上で言葉は用いられ、私は生きている。
基体となるものの実体視の上にすべての言葉は成り立っている。
言葉はそれが名指すものが実体として存在しているという前提としてのみ、使用できる。つまり言語は基体となるものの実体視を前提としている。だが現実の根源、ナマの生には、言葉なんてなくただ目の前の「これ」(自己と世界も未分)がある。
したがって言語は錯覚の上に用いられている。つまり現実ではない。

言語が生み出した最大の問題が、「自己」「私」の実体化。

難しいから、本書で紹介されているもう一例を上げる。
「薪が燃えている」という事実を、「薪」「火」「燃えている」という概念(言語)に分割し、実体視した上で、「薪が燃えている」という事実を把握しようというのが、言語である。
しかし言語以前のところの目の前の現実には、この3つの要素の混沌とした状況しかない。
こうした錯覚に基づく虚偽の言語が生み出した最大の問題が、「自己」「私」の実体視、そして「自己は自己としてつねに同一」という錯覚である。(「自己は存在しない」という問題はあまりに大きすぎるので、西田幾多郎でも、ハイデッガーでも、現象学でも、読んで自分で考えてみるか、あるいは禅の修行をやるか、しかない。いつか記事でも書きたいけれど。)

とにかく錯覚が人間固有の苦しみを生み出している。
我無きカエルに苦しみはない。カエルは自己を実体化していないから、「自分」なんて考えていないから、過去の後悔も未来の不安もありえない。今この目の前の現実だけがつねにある。(「永遠の今」西田幾多郎)
しかも「自己」「私」は、「世界」の前に立つ存在、世界(客体)と切り離された主体として想定されている。だが「私」はいつでも「世界」とともにある。決して切り離されない。常にすでに、永遠の今「私」も「世界」も、ぜんぶごっちゃになっているのが生の現実である。
それを先述のように、概念として分割し、実体化することによって事実を把握しようとした言語が、「自己」を実体化して、世界と切り離し、現実からはみ出させる。

「悟り」はなく「修行」という行為だけがある。

実存するということは、自分と船が一体であるということだ。私と世界とは決して切り離しえない、イコールなのである。「私が修行する」ではなく、いつでも「修行している」という行為しか存在しない。
そもそも「私」なんていないのだから、その私が「悟る」なんてことはありえない、あるとすれば、「悟り」という状態だけ「悟り」という世界だけである。
道元禅師の弁道話で、「法の深浅」でなく「修行の真偽」だけを問えという話がある。そのときの目の前の修行が本当に行じられているのかだけが、問われるべきことなのだ。「その人」として実体視して、彼が悟っただの、悟っていないだの、無意味。

自分すらもない。今実存している「これ」以外にはなにもない。超越的なものはなにもない。これが仏教の核心である。存在するものは無根拠である、その根拠は分らない。根拠のないままに存在している「実存」を受けいれよう。それが仏教の革命的な方向性だ。
むしろ、超越を認めないがゆえに、この目の前の現実、世界と自己とがイコールの「永遠の今」だけがあるという事実に徹底できるのだ。超越の錯覚、言語が生み出したナマの現実を離れた一切の思考を捨て去って、今になりきる、実存だけに踏みとどまる。
「真理(=超越)がないこと」、それは形而上学的問題に対する判断拒否の態度である。
その根本には「実体」の否定、そして「解決」「真理」「答え」の否定がある。そしてこれら現実を離れた一切の超越を諦めたとき、紛れもない現実(実存)が見えてくるのだ。

以上僕なりに本書の重要な要素をまとめた。
本書は仏教史でもあるので、この仏教の核心が原始仏典のどこから読み取れるのか、また、この仏教の核心がそれ以後、「解決」「真理」「答え」を求めるものたちによって捻じ曲げられていく様子が詳述される。ぜひ読んでほしい。

人間以外はみんな、根拠なんて求めずただ精一杯生きている。

さて、「現実を生き直す」ためのヒントを一つ得ることができた。私たちは現実に根拠を求めようとしてしまう。真理や答えを求めてしまう。それは現実に納得がいかないからだと思う。
「なんでこんなにつらいのか」「なんで生きなくてはいけないのか」いずれも切実な問いである。
しかし、理由や根拠を求めることは傲慢でもある。
どうして私たち人間だけが、自分の生きる理由を求めるのか。
野の草花や、セミのように、理由なんて問わずに精一杯に生きることがどうしてできないのか一番大事なはずのこの現実を生きることを忘れて、「生きる理由」やら「正義の根拠」やらを求めて現実を離れ、超越を求めて勝手に悩んでゆく。
自戒を込めつつ、人はまったく愚かである。
この無限の現実のいったいどこに、「理論的」根拠があるというのか。言葉に汚されていない人間以外の森羅万象が、精一杯に生きているのがこの世界でいちばん大事な現実ではないか。
人間だけが、自分で生み出した問い(超越を求める問い)に苦しんでいるのだ。

西田幾多郎の宗教哲学①宗教と道徳のちがい.自力か自己放棄か

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人はなぜ宗教を求めるのか②改善不能な自己への絶望

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人は食って寝るために生きる。田川建三①my読書[4]

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生きる意味を求める人へ。5つの探し方。

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2 件のコメント

  • すごく読みやすい記事でした!!
    私も生きる意味がわからず悩んでいて、仏教に興味を持ったところでした。難しい本が読めない人間なので、このように簡潔に内容をまとめてくださると大変助かります!ありがとうございました(^^)

    • ちひろさん
      コメントありがとうございます!
      お役に立てたようで、嬉しいですー!
      仏教はそれこそ現実を離れずに、目の前の現実を冷静に見極める点で、
      誰にとってもわかりやすく、実践しやすいものだと思います。(キリスト教などは、やはり信仰が前提にならざるを得ません)
      生きる意味についてはさまざまな記事で触れていますので、おヒマな時にどうぞご覧下さいませ。
      (電話や対面での相談・おしゃべりなどもやっていますので、もしご興味ありましたらご連絡下さいませ。)

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    ABOUTこの記事をかいた人

    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。