新約聖書学者にして徹底的に辛辣に、観念的な領域に留まってしまう宗教へ問題を提起した田川建三をご存知でしょうか。
日本全国に出回っている「新共同訳」という聖書、およびキリスト教をストレートに批判しつつ、個人で新約聖書すべて訳し上げた恐るべき人物です。(これは「聖書」なんかでなく、不完全な人間たちが書いた一つの不完全な書物である!と序文で大胆に言ってのけるような方です。)
キリスト教を信じるか否かそれなりに深刻に、感情的に迷っていたときのぼくは、彼の強烈な問題提起に直面しました。とにかく彼の思想をできるだけ深く理解し、自分なりに消化したいなと思いながら書いた記事です。
今回は、「生活・現実」を離れることへの徹底的な批判という点で、田川建三の姿勢の一つの基礎に注目します。
生きる意味・目的・根拠なんてない。食って寝るだけ
人は何によって生きるか、などと問うと、ついあわてて、人間の生の根拠なるものを人間の生の外に探すことになる。(…)
人間の生の「原点」などという発想は、その種の錯覚から出発して、それを哲学的もしくは文学的にこねくりまわしたものにすぎぬ。
こういう場合、「根拠」は目的と大差なくなる。「何によって」がいつのまにか「何のために」にすりかえられる。(…)
人は何のために生きるか、なんぞとたずねられたら、本当は、そのようにたずねること自体間違っている、と答えてすましておけばいいのだが、なかなかそう言ってもわかってもらえないので、 敢えて鮮明に、我々は食って寝るために生きる、と私は言う。人は何によって生きるか、なんぞとたずねられたら、我々は食って寝ることよって生きる、と答える。 人間は食って寝ることによって生きる活力を獲得し、さらに無事に食って寝ることができるように働く。[1]
「人生の意味・目的・根拠」といった問いは、毎日飯を食っては家を出て、また帰ってきて食って寝る、というぼくたちの現実の日常から離れた、ひとつ浮いたところにある問いです。
このことはどこまでも無限に強調すべきことだと思います。人間は食って寝るために、生きるために生きている、根本的にはそれ以外にはない。その基礎の上に立って初めて、生きがいだとか、自分の生の使命だとか、そういったある種の「ぜいたく」が言えるのです。
これらの問いは「ぜいたく」であることを忘れてはいけません。
これらの問いが「ぜいたく」であることを忘れ、人は食って寝るために生きているという「人間の基礎」を忘れてしまうと、「生きる意味・目的・根拠がないのになぜ生きるのか」と考えることになったり、
「生きる意味・目的・根拠も意識しないで生きている人は、愚かだ、下等だ」などと言い始めることとなります。
そんなことが言えるのは、自分が苦労もせずに食って寝られる恵まれた生活が、いったいどれだけの犠牲の上に成り立っているのかに無自覚な人間だけです。
食って寝て生きている、それで終わりだと田川は言います。ぼくはこの「基礎」の上に、「ぜいたく」として「生きる意味・目的・根拠」を求めるのならよいとは思います。
真に批判されるべきなのは、この優先度を逆転させ、「生きる意味」を前提、自明とする人たちです。「生きる意味」を、あたかも衣食住より大切であるかのように考える人たち。「食うための仕事」を馬鹿にしてしまう人たちです。
「生きがい論」は生活の基盤から目を背けさせる。
田川は生きがい論を語るような宗教者、作家、哲学者、大学教授、評論家にむけて次のように言います。
しかし少なくとも彼らは、自分たち自身の生活については、自分たちが他人にむかって説教する人生の目的だの根拠だのに本気になって全生活をかけようとなどしているわけではない。毎日の食って寝る生活の大部分かつ最も重要な部分は、人生の目的だの根拠だのということに無関係に維持しているのである。
食って寝る生活がとりあえず豊かに、心配なく維持されるように保証されているから、それと無関係なところで抽象的に人生の目的だの根拠だのについての思念をもてあそぶことができる。しかし大部分の人間にとってはそうはいかない。(…)
そういう人たちにむかって、生活の現実から離れた抽象的な人生論を説教して、生活の基盤から目をそむけるようにしむけるのは、思想的な収奪、観念の搾取というべきことである。[2]
田川に言わせれば「生きがい」を、さも人生の一大事に語るような輩は嘘つきです。自分の生活については問わずに、偉そうに自分の抽象的な話を語るだけの押しつけ野郎どもです。生活の基盤から目を背けさせようとする、迷惑な人たちです。
一体どれだけの青年、学生がこれらの押しつけに素直に従おうとしたでしょうか。これらの偽善によって害されたでしょうか。自らが徹底しない人たちが発言する「きれいごと」を素直に受け取ってしまう人たちがいるのです。「生きる意味がわかりません」という逆立ち的な悩みとなります。
田川建三の著作を読むと、ときに彼のザイール(現コンゴ共和国)国立大学キンサシャ校での経験が出てきます。そこで植民地支配の現実、強者による弱者の搾取、そして何よりも、「衣食住もままならぬ貧困の本当のみじめさ」を目にするわけです。(私達も弱者の多大な犠牲をユニクロのセールで安売りの服として着、のスタバのラテとして吸い上げる強者の世界の人間です。)
そこで「貧しい者は幸いである」という、キリスト教がしばしば喧伝する「イエスの言葉」の嘘に直面します。(これについてはまた今度詳しく書きます。)貧困の現実、生活から離れたところでは、どんな「きれいごと」も言えるのです。そしてその「偽善」はもはや悪です。現実の貧困、苦しみを覆い隠して、現状を肯定させる働きとなるからです。
しかし田川建三の現実主義は、日本に住んでいる私たちにとっては見たくないものを突き付けます。だからこそ貴重であり、ときに立ち返って考えなくてはならないのです。
「現実をよりよく生きるための宗教」はありえるか。
今回は「観念的な宗教」への問題提起とは直接の関係があまり見えない記事で終わってしまいました。
田川建三はこんな「現実・生活」を徹底して重要視する立場から、恐ろしく鋭利な宗教への問題提起を行っていきます。それについてはまた後日。
いずれにしても田川建三のこの姿勢は、当ブログの方針ともとてもリンクしています。しかしその問題提起については、ぼくは別の立場を取りたいと思っています。簡単に言えば、「現実・生活をよりよく生きるために宗教を求め、生活を離れようとする自己を批判しつつ実践していく道もありえるはずだ」と思うのです。(とは云え一つの宗教、組織、に入ることは即、生活を離れる第一歩になるような気もします。その点、原始仏典におけるブッダの求道が示している孤独の道が与える示唆は大きいです。)
フィリピン旅行に行くため更新は一週間以上空きますが、じっくり取り組んでいきます。
田川建三の立場への応答としては、以下の関連記事、特に西田幾多郎の記事をご参照ください。西田の記事で描いたような、倫理とは全く異なる宗教の領域に対して、田川建三は応答することができていないと思います。
[2]前提書、同章、P.19
ああ、耳が痛いです。
思春期の頃の私に読ませてやりたいです。
今でもしばしばこの辺りの思想をうろうろするので、定期的に読み返したいです。
マメさん!コメントありがとうございます!
ぼく自身も、思春期で悩んでいた自分に向けて書いているフシがあります。そして今も、そんな自分がときおりクエスチョンを抱えてやってくる思いがします。
「定期的に読み返したい」とは、最高の褒め言葉です。
一度読むだけ、頭で理解するだけの思想なんて役にたたないと思います。
本当に肚の底に納まるまで、何度でも立ち戻り、暗記し、支えとし、血肉に通わせなくては現実の生き方・行為は変わらない気がします。(偉そうにすみません)。
そんな「現実を生きなおす」ということが当ブログのテーマでもあります。ぜひご活用下さいませ!コメントや、身近に悩んでいる人に紹介などして頂けると、ブログ冥利につきます。今後ともよろしくお願い致します。
記事のリクエストや、ご質問等も、大歓迎です。お気軽にお便りくださいませ。
創価学会2世として生を受けた20代の頃の私にとって、「人は何のために生きるか、なんぞとたずねられたら、本当は、そのようにたずねること自体間違っている」「我々は食って寝るために生きる」との田川建三氏の一撃は衝撃的だった!今60代になり40年間、日蓮の思想を学び実践してきて思うことは、「食って寝ることさえ困難な大衆」のために行動する、戦う、声をあげる、連帯する「ぜいたくな」人間そして団体が必要ではないか?ということです!
じんじんさま
コメントありがとうございます。
「ぜいたくな人間」の必要性、面白いですね!
自分がぜいたくであること自覚しながら、「ぜいたくを目的として」行動する人は、
「報いを求めず」喜んで人のために尽くすことができる、という可能性もある気がしました。
海野つばさ 拝