キリスト教入門記[4]「自己内矛盾の苦悩」を通して私を導く神

苦悩を通して、神が私を信仰へ導く。

もうここ半年は、キリスト教関連の本しか読んでいない。
そんななかで、自分が本当に感情を揺さぶられ、燃え上がらせられる本はどんな本だったたのかなぁと考えて、自分がキリスト教に「今何を求めているのか」がおぼろげながらも見えてきたので、頭の整理と、みなさんのご参考に、記します。
「自分がキリスト教に何を求めているのか」とは、裏面から見ると、「神は何を通して私を導いておられるのか」という捉え方にもなりえます。
この意味で、人がキリスト教を求める様々な理由には、決して優劣なんてないのだと思います。
それぞれの人の感じ方、考え方に合ったように、神は私達をお導きになるという意味です。

「善的欲望」を支え、「悪的欲望」を打ち倒す、援軍としての神

はじめに結論を言っておくと、ぼくは「人を傷つけたくない/自分のわがままを超えて人を愛したい」という「欲望」を後押ししてくれる力を、「キリスト教を信じること」にもとめているだけな気がするのだ。
あえて大雑把に言えば、ぼくの中には、「自己中心的な欲望を抑えて、目の前の人を幸せにしたい気持ち」があり、
また同時に「人の幸福を押しのけてでも、自分の欲望を満たしたい。成功しているやつがいれば妬ましく思う」という正反対の思いがある。
前者の「利他的」な思いもあえて「欲望」と言いましょう。「利他的な思い=善」というのも一つの価値判断に過ぎない。今回の記事では利他的なものも利己的なものも、どちらも「欲望」であると捉えます。)
さて、ぼくにとって人間は、善的な欲望と悪的な欲望のとの間に引き裂かれ、絶望的に苦しむ存在だ。
そしてこの自己内の矛盾が永遠に解決されないであろうことが、希望を失わせる。
「人はなぜ矛盾した欲望を混在させるのか!なぜ一つの純粋な想いのみに満たされることがないのか!」
人間の心の在り様に対する呪いが噴き上がる。人間の・自己自身の在り様が問題となっているからこそ、この問題からは絶対に逃れることができない、だから呪うしかない。

矛盾する欲望を乱立させる人間の悪(カラマーゾフ長男の叫びから)

2018年9月5日
さてここで、ぼくは切実に神を求める。ここにキリスト教信仰を求める一番大きな動きがあると思う。
悪的な欲望を全く振り捨て去って、善的な欲望に一心に向かえるようになりたい。
悪ではなく、善的なものに勝利の軍配が挙げさせ、この永遠の矛盾を終わらせたい。決着をつけたいのだ。もう迷いたくない、後悔をしたくない、人を傷つけたくない。
そのためには「正反対の欲望同士の矛盾」を解消せねばならない。
ここにおいて、善的欲望の方を力強く支え、権威づけてくれる大きな力、存在が要請される。
悪的な欲望には目もくれなくなるくらい、善的な欲望を爆発させてくれる、永遠に尽きることのない燃料が欲しい。
善的な欲望を圧倒的に支えてくれる援軍としての、神、キリスト教。
種々の価値観同士が拮抗して争っているカオスな状態から、神と隣人への愛を頂点とした、明確な価値序列の世界へ
矛盾、争いがなく、本当に大切なものは何なのかがわかる世界。
自分を押し殺して「利他的行為」を行ったあと、「あぁ俺はなんて損をしたんだ!もっとああしていれば、俺はもっと多くを獲られたのに!愚か者!偽善者め!」という後悔をしない世界。

しかし、この動機はなかなかアヤウイものだ。以前に書いた西田幾多郎の宗教哲学①にあるように、宗教とは区別された「倫理・自力・自己愛的プライド」の方向に逸れ得る動機だ。詳しくは記事をご参照ください。

この「善的な欲望に勝利をもたらすことで矛盾を解決する」ということが、「自力」への希望を残すとき、それは宗教でなく倫理となり、宗教によって「清い人となった自分」という傲慢さにたどり着くだけである。
一方、全く自力を脱して、「ただ神によりすがり、自己を神の前に素っ裸で投げ出す」方向、全き自己放棄に向かったならば、これは宗教の道、己を無にして愛する道へつながっているかもしれない。「右の手の善行を、左の手に知らせるな」
(だから何だと思うかもしれないが、これは大事なところだ。もし自力を頼って前者のエゴイズムの立場に向かってしまったならば、その「自力」が自己中心的な誤りによって人を傷つける。
そしてそれに気づいだとき、また最初のスタート地点、「人を愛そうとしながらも自分を何よりも優先する、この矛盾的な自分は一体何だ」という苦悩に戻ってしまうからである。
これを何度も繰り返すのが求道というものかもしれない。

西田幾多郎の宗教哲学①宗教と道徳のちがい.自力か自己放棄か

2019年2月1日

頭の中では隣人を愛し、現実では憎む…人間の愛の矛盾。『カラマーゾフの兄弟』から。

2018年9月13日

「善の勝利」という希望をもって、私を導く神。

要するに、自分の内側にある「善と悪との果てしない戦い」を、「善の圧倒的な勝利」によって集結させたいのである!
だから、以下の引用のような著作を読むと、エネルギーがガンガン湧いてくる。

(2)情念からの解放・離脱(不受動心)が愛を生み出し、神への希望がそうした情念からの解放を生み出す。神への希望は忍耐と寛大な心によって育まれる。忍耐はまったき自制・克己の生み出すところであるり、神への畏れが自制を生む。また、そうした神への恐れは主への信・信仰によって生み出されるのである。
(3)主を信じるものは罪を畏れる。罪を畏れる人はもろもろの情念を制する
情念を制する人はさまざまの苦しみに耐える。
苦しみに耐える人は神への希望を持つに至る。神への希望はすべての地上的な執着から人を解脱せしめる。
そして、かく離脱せしめられた精神は神への愛を持つだろう。[1]

ここに言う「情念」が、ぼくにとっては「悪的な欲望」である。
この引用箇所では、「神への希望」「神への畏れ」が人を「悪的欲望」から解放させ、「地上的な執着」から人を解脱させることを端的に描いている。

(11)[…]純粋な祈りによってこそ精神は神へとはばたく翼を得て、あらゆる存在者の外に出るからである。
(12)精神が愛を通していわば神的な知によって奪い去られ、もろもろの存在者の外に出て神的な無限性を感得するとき、神的なイザヤによれば、精神はまさに自己自身の卑小な姿を思い知り、[…] (17)すべての人を等しく愛しうる人は幸福である。
(18)可滅的で移ろいゆくようないかなる事柄にも執着しない人は幸福である。
(19)すべての存在者を超えてゆき、たえず神的な美を喜ぶ精神は、幸福である。[1]

次にこちらでは、情念から解放され、「あらゆる存在者の外に出」た精神は、すべての人を等しく愛し、そして幸福であることが記述されている。

端的に言えば、おめでたい話だ。
それは自分の求める言葉を見つけ、その言葉を現実において実践するという最大の試みすら行っていないのに、勝手に喜んでいるからである。
結局ありがたがっているだけで、実践したら全然だめで、結局また出発地点に戻っている自分に気づくのかもしれぬ。
しかし、こうして「理想」を描き、その「理想」への希望を燃え立たせてくれることこそ、神のありがたみなのかもしれない。キリスト教のすばらしさなのかもしれない。(禅宗にはこうした要素がない気がする。老師に尻を叩かれるか、自分で尻を叩くか。そして全ては「無!無!無!!」)
それで、ぼくのなかには、神なら自己内矛盾に陥るぼくの苦悩を癒やしてくれるのではないか、という気持ちしかないのだな、と思う。
神が、キリストがどうこうではなく、「キリスト教を信じるということ」が、「自分」の問題を解決してくれるんじゃないかという。自分の目線からのみの話。
でも、この自己内矛盾から起こる苦悩から解放されたいこと、「善・隣人愛」の勝利こそを求める気持ちがあるということを通して、神が私を信仰に導いてくださっているのだと、考えたくもなる。
この自己愛に満ち満ちたぼくの論理に合わせて、神が導いて下さっているのではないか、と。
一人ひとりに合ったかたちで、神は人を導いてくださるのであり、その導き方に優劣なんてなく、すべては神も絶妙なはからいであるのだと。(アウグスティヌスの『告白』なんかは、顕著にこの神の「良きはからい」への感謝を描いていて面白い。)
「なぜ私は、人を愛せない自分が許せないのか、矛盾をそのままてきとーにごまかして生きていくことができないのか」ぼくの中にあるこんな想いも、神が私に愛を求めさせ、その愛への欲求を通して私を御許に呼び出してくださっているのではないかと、そう思う/想いたい気持ちがある。
あんまりまとまりがなくて、何が言いたいのかわからないけど、今回はこんなもんで締めます。
[1]『中世思想原典集成 精選1』平凡社ライブラリー2,018年,上智大学中世思想研究所編訳。「愛についての四〇〇の断章」(証聖者マクシモス)より

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ABOUTこの記事をかいた人

20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。