これから何回かに分けて、
ニーチェの『道徳の系譜』の読解を行っていきます。今回は「序言」と、ぼく自身の『道徳の系譜』の思い出をご紹介し、『道徳の系譜』は何を問い、その問は何をもたらすのかを確認します。
ニーチェの『道徳の系譜』―哲学書の入門書にして、倫理学の必読書
かくて問題はこうなる、すなわち、
人間はいかなる条件のもとに善悪というあの価値判断を考え出したか?
しかしてこれらの価値判断それ自体はいかなる価値を有するか?
それらはこれまで人間の成長を妨げたか、それとも促進したか?
それらは生の危機、貧化、退化の徴候であるか?
(『道徳の系譜学』ニーチェ著,信太正三訳,「序言」の3,ちくま学芸文庫,ニーチェ全集11,)
ニーチェの著作でも、「説得的である」という点で最も読みやすいのが『道徳の系譜(学)』です。哲学書を原著で当たる際の最初の一冊としても非常におすすめできます。(前提知識があまり必要ないため)それと同時に、「道徳・倫理学・善」について考えるひとには必読の一冊でもあります。
そのテーマはズバリ、
善悪という「道徳的」価値判断はどのように生まれたのか
善悪という「道徳的」価値判断自体にはどんな価値があるか、それは人間の成長を促進したのか?
です。
そもそもの前提として、「善悪なんて人間が自分たちで作ったものに過ぎない」という考えがあります。だからこそ、「人間はいかなる条件のもとに善悪を作ったか、善悪という価値判断に果たして価値はあるのか」を問うことができるわけです。
「道徳的価値」「善悪」を疑う問いは何をもたらすか-ニーチェ『道徳の系譜』
同情と同情道徳との価値いかんというこの問題(中略)を問いたてることを覚えたものには、
私に起こったと同じことが起こるだろう。すなわち、彼には広大な新しい眺望がひらけ、一つの可能性が眩暈のごとくに彼を捉え、ありとあらゆる種類の不信・猜疑・恐怖が跳びだし、道徳への、一切の道徳への信仰がゆらぎ、-ついには新しい要求が瞭然と聞きとられるようになる。(中略)(前提書、6)
同情道徳、道徳的価値に対する問いはただ「問いに対する答えの発見」で終わる問いではありません。それは「新しい眺望」「ありとあらゆる種類の不信」を生み、一切の道徳への信仰をゆらがせます。
この『道徳の系譜』はぼくにとって非常に思い出深い書で、その思い出というのもこのニーチェの言葉をそのままなぞるものです。ぼくはこの本を読み、まさに「道徳への信仰」を木っ端微塵にされました。ぼくは基本的に「道徳的」であろうとする人間で、「道徳的人間」であることで自分を肯定していたフシすらあります。
そんな人間が『道徳の系譜』に出会い、自分は畜群道徳(後述)の主で、強者であることができないから、それへの「ルサンチマン(怨恨)」で道徳をタテに自分を肯定して生きているだけだと、ぼろぼろに批判されたのです。
「道徳的」に生きようとする人間にとって、これは「生きる指針の喪失」を意味します。「あぁ、道徳なんて弱者の恨み節、何の価値もなかったのだ。じゃあ俺は何を指針に生きりゃあいいんだ・・・」まさに絶望しました。
この点にこそ、自分は「心から欲してではなく」「畜群道徳の奴隷根性」で道徳的行為に励んでいたことの証明があります。
もし心から溢れ出る気持ちが、偶然に「道徳的行為」として現れているのであれば、「道徳的行為自身は善でもないし、何の価値もない」と言われても、そんなこと屁でもありません。「別に善も、価値も求めていません、心からやりたいからやっているだけです」と突っぱねることができるはずだからです。
しかしそれができない、絶望してしまう。それは結局、「道徳的行為を、価値や意味や報い、自己肯定の効果を感じて為していた」に過ぎないからです。つまりは「偽善」です。「偽善だって人を救うじゃないか」と反論したくなる人もいるかもしれません。けれども自分が心から納得の行っていない生のどこに救いがあるのでしょうか。
他者への道徳的行為を「自分の満足の手段にしている」というねじれのどこが、救いなのでしょうか。
これはあくまで生き方の問題かもしれませんが、ぼくは「納得しての行為」「心からの行為」がすなわち「よい」のだと主張します。
結果や、他者への効果よりも何よりも先に、行為の「自然性」です。自然な行為の内にこそ、宇宙の一部としての私の面目躍如たる働きがあると思うからです。(果たしてこう言うと宗教的と捉えられてしまうのでしょうか?ストア派皇帝マルクス・アウレリウス・アウグスティヌスの『自省録』をお読みいただけると、少し納得がいかれるかもしれません。今度それについても書きたいです。)
ずばりこの問いは、
絶望ー社会的・世間的価値評価の一切から放り出されること。
希望ー社会的・世間的価値評価の一切から自由になること。
という2つの転機を人生に与えるのです。
価値創造の出発点としての『道徳の系譜』―ニヒリズムから立ち上がる
さて、『道徳の系譜』の絶望はあくまでも出発点です。
「道徳」への信仰が崩れると、他のあらゆる「価値」も疑いになります。なぜなら「道徳への信仰」は社会的な価値への信仰でもあるからです。社会・世間が言う「善悪」「良い・悪い」「得・損」「賢い・愚か」こうした一切が疑いになります。
つまり、自分が一人だけで、信じうる価値判断の基準のない虚無空間に放り出されるのです。この空間では「社会も世間も」何の指針も与えてくれません。全部、「おれはどう思うのか、何が良いと思うのか、何をしたいのか」と、自分で価値判断をしなければならなくなるのです。この、「自分で善悪正邪を判断しなければならない」ということ、これがニーチェの言う、「新しい要求」であると僕は読みたいです。
しかしこれは「広大な新しい眺望」でもあります。なぜなら目の前には、「社会・世間の評価」が無に帰した、恐ろしくも清々しい自由の世界が広がっているからです!もはやすべての評価を自分を拠り所として下すことができる。「社会・世間・友人知人」の評価の一切から自由になり、すべてを自分で決める権利を得たのです。道徳への信仰の崩壊とともに!
此処から先は、自分で自分の価値判断を作っていく、つまり「価値創造者」としての生が始まります。「他ならぬこの俺は何を欲し、何を正義と決めるのか」という生です。誰も助けてくれません、誰も何も与えてくれません、しかし代わりに、すべてを自分で決めることができる。自分が自分の人生の審判者、評価者になるのです。自分の人生に対する他の誰の評価もくそくらえです。この価値評価の軸のない世界へ初めて入ったときのまぶしさ=絶望から立ち上がるには、彼の別の著作『ツァラトゥストラ』を読んだり、
自分が何を良いと「感じるのか」を知ることが必要ともなりますが、それはまた後日。
〈我が魂の運命〉という喜劇を歌おう!
だがしかし、われわれがいつの日か心の底から
「前進せよ!われわれの古い道徳もまた喜劇にぞくする!」と言う時がくれば、
われわれは〈魂の運命〉というディオニュソス劇のための新しい葛藤と可能性を見いだしたことになるのだ-そして彼、われわれの生存の偉大な老熟した永遠の喜劇詩人は、賭けてもよいが、かならずやそれを利用するであろう!・・・
(前提書、8)
さぁ、自分の〈魂の運命〉という「喜劇(!)」を演じるために、まずは社会的・世間的・畜群道徳的な「道徳への信仰」はいかなるものであるのかを、探っていきましょう…
次の記事では『道徳の系譜』を読解していきます。
↓↓それなりに本格的に読みたい人は注釈・解説・索引が充実しているちくま学芸文庫のニーチェ全集がおすすめです。
↓↓哲学書を読むのが初めてなら、光文社古典新訳文庫が読みやすく、各節に小題がついているためおすすめです。
当ブログとぼくの活動についてはぜひこちらを御覧ください!
コメントを残す