こんにちは。ばさばさです。
2019年8月から「レンタルあいづち兄さん」としても活動をはじめました。
周りの人には中々話せない話がある人や、話す機会の少ない人のために、
どんなはなしでもおききします。
レンタル料は珈琲一杯(場所代)です。
お気軽にご利用ください。#レンタルあいづち兄さん pic.twitter.com/Un7DkEnM2l— レンタルあいづち兄さん@新宿駅 (@aizuchibrother) August 5, 2019
最近は新宿でプラカードを持って話したい人を待っています。
ご連絡頂ければ、交通費と場所代の実費のみで出張します。(twitterアカウントの紹介文より)
はなしをきいて、ただあいづちをうちます
【レンタルあいづち兄さん】は、アドバイスも評価もしないで、話をきいて「ただあいづちをうつ」ことを大切にしています。
1つ目の理由は、「あいづち」がぼくにできることだからです。もしぼくが瀬戸内寂聴さんだったら、最高のアドバイスや、その人の魂を奮いたたせるような喝を入れることもできたかもしれません。
しかし、ぼくはそこらにいるただの若者です。豊富な人生経験があるわけでも、カウンセラーの経験があるわけでもありません。よくわからない、あやしい若造です。いろいろな悩みをお聞きして、それに対して、何かができるわけではありません。
実際にいろいろなお悩みに苦しんでいらっしゃる方々の話をお聞きしていると、
「あぁ、ただあいづちをうつことしかできない。人はそれぞれの苦しみを抱えて、生きるしかないのだな」と実感します。自分の無力さ、人と人とが関わることの間にある壁を感じます。
だから精一杯、せめてあいづちだけでも打たせて頂いて、すこしでも悩んだり、さみしい想いをしている方の心の重荷が軽くなったら良いなと思います。
2つ目の理由は、きっと自分の話にただ「あいづち」をうって欲しいひとがいるはずだ、というぼくの予想です。
人は、人にたいして、いくらでも文句を言い、アドバイスをしたがります。自分の人生や感情や論理を、相手に押し付けたがります。
そんな押し付けは、ときに精一杯生きている人たちを傷つけます。「うるせぇ外野は黙ってろ!人の人生に口出しすんじゃねぇ!」てなわけです。たぶんみんなそんな思いはあるはずです。
それでもやっぱり、アドバイスしたくなっちゃうもんです。でも、自分の人生は、自分の人生で、だれも肩代わりすることはできません。所詮、外野からの口出しにしかならないです。(それはこのブログでぼくが自分の考えを記事に書くことの限界・悪でもあります。)
ただ「あいづち」をうってもらうことは、なかなかないのではないかと思います。やっぱりみんな、どこかがひっかかって、口を出しちゃう。
だからこそ、それを求めている方もいるのではないか。「ただ、話したい。自分のなかに溜まっているものを外に出したい」という人がいるんじゃないか。特に、「他人には間違いなく否定されるような気がする話」なんかに、ぜひぼくはあいづちを打たせて頂きたいです。
そもそも本当に大切な出来事・お話というのは、極めて個人的で、「世間や社会」にはなかなか理解されないことなのではないか。
本当に自分がやりたい、大切だと強く思うことは、「世間や社会」の常識なんてどうでも良くなるほどに、強く求めるわけです。
例えば、いわゆる「道ならぬ恋」。世間からしたらありえない相手に恋をしてしまうこと。人には言えない恋です。社会からしたら、不倫であっても、本人にとっては世界で一番大事なことかもしれません。
また、例えば、妻子がいるけれど「お笑い芸人」になりたい夢だとか。「そんなことより妻子を養え!」と世間は言うかもしれません。
「事実は小説よりも奇なり」。
しかし本人にとっての一大事こそ、なかなか他人には話せないのではないか。
評価もアドバイスもされる心配なしに、伸び伸びと、利害関係を離れた第三者に話すことができるとしたら、ぜひ話したいという方もいるのではないか。
たとえ問題は解決しなくとも、少しでも心が軽くなったりはしないものか。
そんな想いで、この活動を始めてみました。
きっかけはレンタルなんもしない人
この活動を始める一番大きな刺激となったのは、「レンタルなんもしない人」を偶然テレビで見たことです。
彼は「なんもしないでそこにいること」を、一つのサービスとして提供し、それでたくさんの依頼を受け、活動しています。
え、そんなことって可能だったのか!と、素直に驚きました。
「なんもしないでそこにいる」とは、社会や世間からしたら、基本的には「なんも価値がないこと」でしょう。しかし、そんなことでさえ、自分で発信しさえすれば、サービスとして広く提供することが可能なのです。
ぼくはずっと、お金を誰かに頂くということと、本当の意味で人を幸せにすることとの間のギャップを前に、足踏みをしていました。
働いて自分で稼ぐことは良いことだとは思っていても、この社会にある仕事が本当の意味で人を幸せにしているとは思えない。やりたい仕事がない。
企業の都合や、人の「わがまま」を満足させるための仕事や、「ただのぜいたく」を金持ちに売り込む仕事ばっかりじゃないか、
結局だれかの「わがまま」やぜいたくのために、裏で誰かを犠牲にしているだけじゃないか。そんな思いが沸いてしまいます。
社会にとって価値があることと、ぼくが価値があると思うこととの間のギャップに苦しんでいたのです。
あえて大げさにいえば、社会は欲望を満足させ、より「ぜいたくなもの」を提供することに価値を置きますが、
ぼくは「足るを知ること」、今目の前にあるものを大切にして生きようとする方向にこそ、人の幸せは多い気がします。
しかし、それはやっぱりカネにはならない。お金に結びつけるべきことではないとも思います。
社会的には価値がないことでもサービスになる。
そんな折に、「レンタルなんもしない人」は、
「なんもしないでそこにいる」という社会的にはむしろ「邪魔(非生産的・お金が動かない)」とも言えることを、サービスとして提供していると知ったのです。
「そうか!自分の想いと社会の需要とをうまく融合させようとしなくったって良いのだ。個人と個人との関係で、サービスは成り立つのだ!」と気づきました。
もちろんこのやり方では、サービスの規模は1対1を超えることはできません。
しかし、人と人との関わりを主題とした活動は、そもそも1対1でなされるべきだとも思います。1対1だからこそ、社会の常識も世間の評価も度外視した自由な関わりができるからです。
(例えば、学校現場における先生と生徒との関わりを想定してみてください。そこにはあらゆる制約・建て前があります。
ぼくにとってそれは非常に不自然で、「おかしな関係」です。
全然対等じゃない、「学校」以外には見られない関係です。
不合理な校則・画一的なルールが上から与えられ、生徒も先生もそれを押し付けられる。
謎のルールの囲いの内で、生徒も先生も不自然に振る舞うしか無い。
「学校はそういうところだ」と言われる。
冷静に考えてみれば、おかしな話だと思います。)
レンタルあいづち兄さん
「レンタルなんもしない人」の活動を知り、自分のなかでいろいろとハードルが低くなったのだと思います。
そんななか当ブログでの発信や、関わりも、同じところをぐるぐる回っているような感じがしてきたので、(ぐるぐる回る、それこそが生であると言えますが)
ぼくも、もっと広い人に向けた新しい活動をはじめてみよう!と思い、実行してみました。
当ブログやtwitterでの発信は、どうしても似た者同士というか、内輪に向けての活動になると思います。それはそれでとても大切なことです。
でも、自分にできることはそれだけか?と言えば、そんなことはない。もっと別のアプローチをすれば、また別の人たちのために何かできるはずだと思いました。
それで、SNSではなく街頭に立って、そこにいる、さみしさやわだかまりを感じている人のために話だけでも聞くことはできるのではないか。それも価値あることではないか。
SNSでは絶対につながらないような、考え方も生き方も全然違う人たちと関わることができるんじゃないか。
似たもの同士の集まりの中で、偉そうに語っているだけじゃなくて、もっと社会とつながったところで頑張りたいという想いもあります。
偶然出会った、共通項もあまりない人の話を聞かせて頂くということは、僕自身にとっても間違いなく大きな糧になります。
そんなこんなで、どれだけ需要と依頼があるのかはわかりませんが、とりあえず、始めてみます。よろしくおねがいします。
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