坂口安吾「文学のふるさと」-芥川が突き放された生活に根ざした不条理

「文学とはなにか」「文学は何を成しうるか」もはや今では忘れ去られた問いかもしれません。
しかし過去の文学者たちは、自分たちの存在意義にもつながるこの問いを、必死で考え続けました。それは文学が一級の文化と考えられ、自らの重さや責任を自分で考えていた時代です。
今や文学、いえ、小説は「読者を楽しませる」だけでその任を十分に果たしていると、自他ともに当然としている時代かもしれません。
しかしこの時代にあってさえ、小説に「人生を生き直す」きっかけを求め、大きな期待をする人にとっては、「文学は何を為しうるか」という問いの重さは変わりません
今回はこの問いに対し「文学のふるさと」について語った坂口安吾の文学論を読み、考察します。
結論を先取りしますと、私たちの人生の不条理をただ描いて嘆くだけではだめで、生の不条理を前提とした上で、その上に何を語り、何を描くのかが文学の価値だと坂口安吾は言います。

芥川が突き放された「大地に根の下りた」不条理

安吾は芥川の死後に見つかった手記を例に持ち出して、「文学のふるさと」を語ります。
ある日、芥川をときどき訪れていた水飲み百姓がやってきて、自分の書いた原稿を芥川に読んで欲しいと手渡します。

芥川が読んでみると、ある百姓が子どもをもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生まれた子どもを殺して、石油缶だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。
芥川は話があまりに暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。
すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。芥川はその質問に返事することができませんでした
何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合わせたことを物語るように思われます。
さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去ったのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。(中略)
とにかく一つの話があって、芥川の想像もできないような、事実でも有り、大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。
(『坂口安吾全集14』,ちくま学芸文庫,1990,「文学のふるさと」)

芥川が突き放されたのは、「大地に根の下りた生活」の中に事実として存在している「不条理」です。安吾はこれこそが「文学のふるさと」であり「人間のふるさと」でもあると言います。
同じ「突き放し」を示すものとして、おばあさんのお見舞いに行った可憐な少女が、おばあさんに化けた狼にただむしゃむしゃと食べられる「赤ずきん」や、せっかく駆け落ちに成功した女を、雷の音とともに鬼に奪われてしまう「伊勢物語」(国語の教科書にものっていたアレです)等を挙げます。
これらはいずれもモラルや社会性とは隔絶しているが、しかし現実に有無を言わせずに存在している不条理です。
では安吾はなぜこうした不条理を「文学・人間のふるさと」であると言うのでしょうか。

生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独、不条理

この3つの物語が私達に伝えてくれる宝石の冷たさのようなものは、なにか、
絶対の孤独生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか。(中略)
生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。
私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。
この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。(前提書)

それはこの不条理を「生存それ自体が孕んでいる」からです。
「普通に」この人間社会を生きていると、そこは「モラル」「社会性」「条理」によって覆われ、一見したところキレイに見えます。
しかし一歩その奥に踏み入ってみると、「普通の暮らし」というベールの奥へ入ってみると、そこにあるのは不条理、孤独、悲惨さの混沌です。

テレビの画面ではなく、現実に生きている人の顔を見るだけでも良いでしょう。
学校にも家庭にも居場所がなく、どこにいてもびくびくせざるを得ない子どもたち。
八つ当たりの相手を探し肩をいからせて歩く仕事終わりの会社員。
困ってどぎまぎしている人間を、知らんふりで横目で見ながら楽しむ同僚。なんでも良いですが、よくよく見れば、この世は不条理だらけ、クズだらけ、どうしようもない世界です。

不条理というふるさとの上にたった文学・人間

私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。
文学はここから始まる―私は、そうも思います。(中略)
このふるさとの意識、自覚のないところに文学があろうとは思われない。
文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、
私は決して信用しない。そして、文学の批評も。(前提書)

文学、人間は、この「不条理」という「ふるさと」の上に生育したものでなければならない、そう言って安吾はこの評論を閉じます。
冒頭の引用文でみたように、「根の下りた生活」にちゃんと「突き放された」ところに、芥川の誠実さがあると安吾は言っていました。
安吾によれば、人間のふるさとでもある現実の中の不条理を知らない、世間知らずの貴族、きれいなうわべだけの「モラル的社会」しか見ない人間の書く文学は、信用ならないのです。キレイゴトでしかない生活の上辺をさらっと撫でても仕方がない。
しかし、
しかし、何もこの世の不条理を文学的に表現すれば良いというわけでもない。

アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。
否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……(前提書)

この視点は、坂口安吾の太宰治批判に通ずるところだと思います。(詳細は下の記事)
安吾は太宰の小説を2つに分けていましたが、不条理や絶対の孤独を描いただけの「突き放した物語」は、太宰治の小説の中のフツカヨイ的作品にあたり、こうした人間の絶対の孤独をユーモアでくるんで笑い飛ばしたものを、コメディアン的小説として評価していたと言えるのではないかと思います。

坂口安吾の太宰治への異議―「暗黒面」でなく、生きる踏ん張り。

2018年8月9日

この生の絶望を知りつつも、ただ絶望をしているだけではない。絶望を知りつつ、その不条理を離れないままに、絶望の先を描く
この困難な事業に成功した小説こそ、価値があるのでしょう。
この危ういバランス絶望を離れず、絶望に終わらないの上に、優れた文学は生まれてくるのではないかと思います。


田川建三③「貧しいものは幸い」の虚偽と真理。相手の現実に寄り添うこと。

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2 件のコメント

  • 15年以上前に読んだ国語の教科書に文学のふるさとが掲載されており、
    その内容の解説の授業がとても印象に残っていました。
    が、詳細は忘れてしまって歯痒い思いをしていたので、
    こちらで良い解説に出会えて良かったです。
    ありがとうございます。

    • 匿名さん
      コメントありがとうございます!
      まさか国語の教科書に載っていたとは…!
      ふとした拍子に「人生の不条理・深淵」に見舞われて、右も左もわからなくなってしまった人たちにとって、文学はかけがえのない導きの石になりうるでしょうね。
      そうした文学が、届くべき人に届いて欲しいと祈ります。

      お役に立てたようで、嬉しいです!またお越しくださいませ。

      海野つばさ 合掌

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    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。