後半は、そんな喜びの経験を出発点に様々なことを始め、ちょっとごちゃごちゃになって。
それから余計なもの・想いは削ぎ落としつつ、自分の活動を秩序立てようと試行錯誤している現在までの話になります。今も模索中…。
自分にやれることはごくわずか、それをしっかりと見極めて、この短い人生を活かし切りたいです。
自分自身にとっても本当にごちゃごちゃした1年半で、更新するのがすっかり遅くなってしまいました。ごめんなさい。
(そもそも自分のことを書く・語るのがぼくはあまり好きではありません。それはぼく自身の一つの「解釈」に過ぎず、むしろその解釈が「事実」だと勘違いしてしまうことも多いです。
ぼくもぼくにとっては独りの他者でしかありえません。その意味では、「自分語り」は自分自身に対する暴力にもなりうる気もします。本来ひとの人生、生活は、言葉になんぞならない、掴むことのできないものであるはずです。)
いずれにせよ、いろいろ右往左往しつつ、生きているみたいですね。
ほんとうに、他人事のように、実感も記憶もないものです。笑
悟りを小説に書いて、えらくなりたい
さて、禅で「悟った気」になって、ぼくは調子に乗っていました。
自分の悩みの「克服・悟り」を自分が大好きだった小説で表現したい!と思い、小説を書き始めました。
「自分が悩んだ経験を誰かのために活かしたい」という想いとともに、
「自分を認めてほしい!」というエゴイスティックな想いも強くありました(もちろん、今でもあります。)
厳しい修行を経て「何かを掴んだはずの自分」に酔っている、鼻高々なわけです。俺は「他のやつらとはちがう」と。
「すごい俺」だから、「すごい小説」を書けて、それで評価されて、あわよくば収入にしたい、
そんないたってセコいな想いを「自分の経験を悩んでいる人に伝えたい」という「大義」の裏に渦巻かせていたと今では思います。
そもそも最初の公案を通った(師匠の最初の問題を解決した)と言っても、それは本来の面目(本当の自分)の尻尾をちょっと見ることができただけで、気持ちとしては晴れ晴れしますが、何の役にも立ちません。
その「悟り(本当の自分)」を使いこなして日常生活を送るための修行は、まだまだこれからなのです。
気分が晴れ晴れしたと言っても、心配事・悩み事が増えてくればすぐに心は曇って、元の木阿弥です。
(この辺りは禅の修行の階梯(ひいては人間の成長の過程)を表現した人類の遺産『十牛図』にぜひ触れて見てください。上田閑照と柳田聖山の『十牛図』はかなり哲学的ですが、おすすめです。)
本来の面目、言い換えれば「本当の自分」を「見た」とは言っても、それを「使える」わけではありません。
「本来の面目」を日常生活の忙しさ、プレッシャー、思考の嵐の中でも見失わずに、本来の面目を自らの源として、一つ一つ考え、実践できるのでなくては、迷いに満ちた自己の愚行を重ねるだけです。
そのために「悟後の修行」(悟りを生活の真っ只中で活かしていく修行)があります。この辺りは興味のない方が多いと思うのですっ飛ばします。
禅が目指すのは気の良いただのおじいさん
ぼくはいわゆる「悟り済ました」小僧になっていました。調子に載っていました。
しかし、禅が目指すのは好々爺(こうこうや)です。ただの気の良いおじいさん、何の変哲もない、どこにでもいそうな、のんびりとしたおじいさんになることが目標なのです。
それは、修行にも、「悟り」にもこだわらない立場です。
悟りを通り過ぎて、日々是好日の「ふつうのせかい」に戻ってこなければならないのです。
一見ふつうのおじさんなんだけど、心は一点の曇りもなく澄み渡っていて、いつでも真理と一体になって行為しているおじさんです。
別に特別なことをするわけでもなく、日常の一つひとつの行為がそのままに、悟り、仏の行いになるはずなのです。
その意味で、総理大臣になって日本を引っ張ろうが、庭師だろうが、サーファーだろうが、変わりはありません。外面的な話ではなく、行住坐臥を貫く働き如何の話です。
自分の為すべきことを、余計なことは考えず、ただ自ずから正しく行じるだけです。
(この辺り、未熟なぼくがいくら言葉を連ねても、すべて受け売りなので、話半分で聞いてください。)
そうして、だいたい2年位は小説執筆に燃えていましたが、結果として、3本送った新人賞はすべて一次選考落ちで、だめでした。
その間にも卒論(西田幾多郎)や禅の修行、教員免許取得など、いろいろありましたが、長くなるのでスルーします。
送った小説の中でも特にクレイジーな一部分をブログにも上げていますので、もし興味がありかつ、暇すぎて死にそうな方はご参考ください笑。
読まれない小説は意味ない。それでこのブログができた
2年くらいは、大学の授業、卒論、禅の修行と同時並行で小説創作を楽しく書いていました。
ただ新人賞に応募したところで、一次選考で落とされるのなら、ぼくの小説はおそらく「下読み」の一人にしか読まれていません。誰にも読まれない小説は、無意味です。
更に、小説執筆に執着してしまっている自分にも、禅の修行を通じて気づいたようにも思います。小説を書くことによる現実逃避です。自己正当化です。
とにかく、誰かに、悩んでいる人に読んでもらえなくては意味がない、と我に帰りました。
「一体お前は何をしているんだ?自分の書いた小説に酔い痴れて、自分で自分を慰めているだけじゃないか?悩む人のために生きたいという想いはいつどこに捨てた?」
そこでブログを開設して、直接読者に文章を届けることにしました。
最初の1ヶ月位はアクセスが1桁で本当に心が折れそうでしたが、twitterアカウントも作ったりして、とにかく必死で活動しました。
だんだん読んで頂けることも多くなって、ごくまれに読者の方とお会いすることもありました。
とはいえ、自分の活動も少しずつ軌道にのれば、考える余裕も出てきて、自分の活動を反省したり、「より良いもの」を求める欲望も湧いてくるものです。
またまた自分を振り返り、自分自身に問うこととなります。
(そんなことを繰り返して、あっちへこっちへ行ったり来たり、実は同じところをぐるぐると巡り歩くのが人生なのかもしれまへん。)
目に見える関わりがしたい!
ブログを書いていても、なんというか、空しいのです。
自分の考えたことを発表して、基本的にはコメントももらえないので、それで終わり。コメントをもらえたとしても、
「お前ほんとにわかってんのか?いっときの気まぐれじゃないか?本当にその感想をあんたの実人生に活かしてくれるんだな???」と、腑に落ちない。
なんだかもっと、目に見える、直接人と関わることがしたい、と思い始めました。
また、ブログではやはり「テツガクテキなこと悩んでいる」人たち、言わば似た者同士が集まるわけで、そこにも何かウンザリしていた気もします。
何かもっと、普遍的な、誰にでも役に立つものが、ぼくには提供できないか。そんな身の程知らずな野心もあった気がします。
「おれはこんなうじうじした連中(すみません笑)に対してだけじゃなくて、もっと、あらゆる人に、何かができるはずだ、」と。
プライドというか、同族嫌悪みたいのがあったと思います。正直に言って。
日の目を浴びたかったのかもしれません。ぼくにもよくわかりません。
それで、ちょうど8月一杯は働き口がなかったので、路上お悩み相談、【レンタルあいづち兄さん】を始めました。(詳しくは下の記事を御覧ください。)
路上で、普段は絶対関わらないだろう人たちからさまざまな話を聞いた経験は、ほんとうにたくさんの学びがありました。とても心強い仲間との出会いもありました。
きっと一期一会だからこそ、話して頂けること、触れることのできる相手の世界があったのだと思います。
しかしここでもやはり、自分の活動への執着、目に見える成果への囚われを感じました。
また活動を続けていく上で、「生きねば活動」で小遣いくらい稼ぎたいという邪念を、きっぱり捨て去らねばならないと、強く感じました。
ブログ(文章)とそこでの出会いを大切に
それで冬の寒さで路上での活動も不可能になり(このとき本当に身体の芯から凍えたのは良い思い出です。)、レンタルあいづち兄さんも冬季休業に入りました。(その後はコロナ…)
そこからはSkypeあいづちや、コーチングやtwitterでの活動など、いろいろやりました。
しかし、自分で手を広げすぎて、誰のために何をしたいのか、自分に与えられたエネルギーをどこに注ぎたいのか、わからなくなってきていました。
「生きねば活動」で小遣いくらいは稼げないものか、との邪念も、自分の活動や行動をブレさせていることにも気づきました。
それでやっぱり、自分の飯は自分で稼いで、自由な趣味、喜びとして「生きねば活動」を行なうべきだろう、そこにはっきりした覚悟が必要だ、ということで、考えが整理されて行ったように思います。
結局「ヘンなサービス精神」が出てしまえば、対等な関わりにならず、自分にも相手にも、無理が出てきて続けられないことがわかりました。
活動を続けていくうちに、いろいろなものをひきずって、大きくなりすぎていましたし、様々な活動を実践していく内に、自分が集中してやるべきことも見えてきた気がします。
もっともっと自分自身を鍛錬して行かなくては、人をいやすどころか、より深く傷つけてしまうということも知りました。その他いろいろ考えました。
それで、働いて自分のお金を稼ぎながら、細々とブログを書いて、
今までの活動で関わって来た方との一つひとつの関わりを大切にすることこそが、
ぼくのライフワークなのだな、と強く実感しているのが、現状です。
(有り難いことに、ブログを通して、自然と、新しい出会いも生まれてゆくようになりました)
一期一会のあいづち兄さんも面白いけれど、たまに余裕のあるときにやるくらいでいい。ブログをしっかり運営しながら、そこから出会った人たちと、一歩ずつ関係を深め合い、励まし合いながら生きてゆく。
また、ブログから興味を持ってくれた人と新たにつながりつつ、自分自身の「生きねば…」も磨き、深めていくこと。
自分の得意なこと、できることを静かに続けて、自分との関わりを求めてくれる人のために活動すること。
それがとりあえず、今の自分の道なのかなと思っています。
キリスト者になってた
もう一つ、気づいたらキリスト者になっていたことも書いておくべきでしょう。
一番のきっかけは、自分の禅の師匠が、禅の師匠であることを辞めてしまったことです。(普通ありえないことなのですが、いろいろありました。)
それでとにかくぼくは今の師匠との修行が続けられなくなりまして。かといって、代わりに別の老師(師匠)について修行を再開することも、とりあえず保留しました。
今後も人生をかけて禅の道を歩んでいくべきか、改めて考えたかったからです。
やるならやるで、今まで以上に全力で修行に打ち込まなくては、中途半端にやるのではむしろエゴばかり強まりそうな気もしました。(保留したのは禅問答・泊まり込みの摂心修行のことで、毎日の座禅は今でも続けています。)
それで、以前から興味があったキリスト教について勉強し始めました。ほんとに1年位はキリスト教の本以外は読んでないくらい、どっぷりのめり込みました。
それまでは生涯、禅者として師匠のもとで臨済禅の修行をしながら生きていくつもりでしたので、ぼくは生きる指針を喪ってもいました。
今までの修行に意味はあったのだろうか?…、と疑うときもありました。
「これからどうしていこうか」と、座禅をしつつも、頭を抱えていました。
それで、実践を通してこそ本当に身になるものだと考えていたぼくは、キリスト教の本を読みつつ、とりあえずキリスト者としての生活を実践しました。
キリスト教に関する本を読み、聖書を読み、朝晩にお祈りをし、神さまに語りかけ…。
それで地元のお祭りで、シスターとして修道院に入る前の最後の世俗生活(2周間)を過ごしていた方と偶然お会いし、
そこでのつながりから教会にも足を運ぶようになりました。
短い出会いでしたが、とても印象的な体験でした。
その方から尊敬する禅の先輩と通ずる「まっすぐさ」を感じました。
それからお御堂でお祈りしてみたり、入門講座に行ったりして、キリスト者としての生活により深く入り始めました。
全然信じていないなりにもお祈りをしたり、神さまに話しかけたりしているうちに、気づけばキリスト教を自分の拠り所にしていて、それなしでは希望をもって生きられないという感じになっていました。一年半くらいかかって。
仏典が示す人間像とはまたちがう、イエス・キリストの生き方、教えに、自分の個性もとてもマッチしていると感じました。
以上、とても長くなってしまいましたが、今後ともどうぞよろしくお願い致します。
うじうじしたやつですいません笑!
うじうじしててもいいですか?
よかったら嫌わないでくださいしんじゃいたくなります(?)
うじうじでも救われたい!
永遠の命、死が滅ぼされた状態 と 生命に関するすべての事柄が絶やされてしまった状態 どっちも 普通の人の感覚だと無い気がするんですが思いっきり信じればどっちかで救われますかね? 欲深いのでただ楽しい というのは何だか救いとは違う気がします
(つい余計なコメントを残してしまった)
ななしさん
誰に構うことなく、何も気にせずに、ななしさんはななしさんなりに、堂々と生きていかれたら良いと思います。
余程の嫌がらせを受けない限り、ぼくはあまり人を嫌いにはなりませんし、たとえぼくに嫌われたところで、ななしさんは何も気にする必要はないと思います。
むしろぼくは、コメントを頂けて嬉しく思っています。
信仰、救いに関しては、うじうじだとか、「普通」だとかは、全く問題外です。心配することはありません。
信じて、それを拠り所に日々を生きていかれる中で、ななしさんなりに救いや喜びを感じるときもあるのではないかと、ぼくは思います。
ただし「欲望が満たされること」はむしろ救いや信仰の足を引っ張ることではないかと、ぼくは思います。
ぼくにとって「救い」とは「心の平穏さ」です。心が平穏だからこそ、日常のささいなことに楽しみを感じられるということはあると思います。
ぼく自身の考えからすると「うじうじすること」もななしさんなりの道であり、その裏には神さまの導きがあるのではないかと思います。
目の前にふと訪れるチャンスを見逃さずに、来たるべきが来るのを焦らずにお待ちになってはいかがでしょうか。
なんて、すこし踏み込みすぎました。またコメントお待ちしております。
海野つばさ 拝
ご返信ありがとうございました。
全く問題外と聞けてよかったです。
素朴な疑問ですが、生まれてしまったら全ての生き物は生きなければいけないのでしょうか。
死ぬ権利はありますか。止むを得ない場合のみでしょうか。
キリスト教は生存欲に執着しますか?
よろしければご回答よろしくお願いします。
ななしさん
あまり論理的・合理的に答えても仕方ないし、ぼくは考えたくもないので、素朴に答えさせて頂きますね。
「生まれてしまったら全ての生き物は生きなければいけないのでしょうか。死ぬ権利はありますか。止むを得ない場合のみでしょうか。」
まず、人間以外の生き物はすべて、生きようとしていると思います。そこに権利なんて発想は一切ないと思います。ただ必死に生きているだけです。そして必死に生きても、途中で死んでいくものばかりです。
権利だの言うのは人間だけです。そもそも権利とは一体何なのか。頭のなかの言葉に過ぎないと思います。
「生きねばならないのか」という問いを発すること自体が、とても人間的で、奇妙なことだとぼくには思えます。
生きるも死ぬも、誰に言われてするもんじゃないと思います。誰にも聞かずに生き、死ぬことができます。
「権利」というのはぼくにとってはただ頭の中だけに存在している言葉にすぎないので、権利があろうがなかろうが知らんこっちゃない、と感じます。
誰かに「お前は生きる権利がない」なんて言われても、知らないし、「生きる権利があります!」なんていわれても、「だから何」って感じです。
生きることは、そんな「人間の言葉・理論」なんて全く超えて存在しているものだと思っています。関係ないって感じです。
「キリスト教は生存欲に執着しますか?」
例えばカトリック教会の教理でしたら、自殺は罪だとされます。「人は神と隣人に仕えるべくして生きている」という前提があるので、自分の命は自分のものではないからです。
ですから、「生存欲」という個人的なものとはあまり関係がないと思います。「自分の感情として生きたくても、死にたくても」自分の命を有効に活用しなくちゃね、という話です。
いえいえ、ご回答ありがとうございました。ちょうど気が立っていたときに衝動的にコメントしてしまいました。暗いコメントはしづらいですが受け止めてもらえてよかったです。
やはり思考はスルーした方が救われるようですね。
生存欲のせいか悪い方に考えるのは簡単です。
哲学の言葉で救いをあらわそうとしている学者もいますが、哲学では歯が立たないかもですね。
生命はほんとうに「よい」ものでしょうか。
やはりどうにもならない 苦 がベースな気がしますし、0地点に行くのがいい気がします。
ポジティブであればあるほどいいとは言えない気がします。
この世は穢れているということに共感しますが、なんでわざわざ穢れた世に放り込まれるのかが非効率的すぎておかしいと思います。修行するためなんておかしいと思います。おまえは完全じゃないと、けなされている気がします。この未完成の宇宙で完璧を求めると破滅しますが。
なにか条件つきの救いは違和感がありますし、人の迷惑になるから仕方なく生きてるというマイナス時点から生きるのもモヤモヤします。
ななしさん
「生は不条理である」。
「そんな不条理に、放り出されて、勝手に生かされて、なんなんだ!」という話なのかな、と思います。
これについては、ぼくは、「頭で考えるべきことじゃない」と考えています。
頭で考えるから、「条理・不条理」とか、「なぜ?」とかが出てきてしまう。
しかし世界は、そんな理屈を超えて、神秘として存在しています。
自分の生すらも、あたまっから神秘です。だからそこに「理屈」を持ち込むべきでないのだと思います。
波打ち際で、定規をもって海の長さを測ろうとするような感じです。
人間は頭でものを考えるから、頭でものを考えてしまいますが、それと、世界の存在とは全く次元の違う話なんだろうと思います。
ぼくは神さまを信じているつもりですが、神さまのお考えは、まったく理屈を超え、人間の想像を超えているものだと思います。だから人間が頭で考えて、あれこれ批評してみたってしょうがない。全く次元が違うのです。
だから自分なり、人間なりの醜さ、愚かさ、不完全さで必死に生きるしかない、そんな風に思っています。
ななしさんにも、ななしさんなりの形で納得、あるいはやり過ごすときが訪れることを祈っております。
とりあえず今はこんな形でしかお答えできません。ごめんなさい。
ばさばささんこんばんは。
魂からふと自然に、大いなるものを信じることが
できるようになれた気がします。
ずいぶん気が楽になりました。
ばさばささんのお祈りが届いたのですね。
なんとなく近況報告しました。
これからの活動も応援しております。
ななしさん。
近況報告、ありがとうございます。嬉しいです。
そういった「自然とわいてくる」感覚、どうぞ大切になさってください。
それが一番、この世で信じられるものだとぼくは思いますし、
そうしたカタチ以外に、人が本当に癒やされることはないという気がします。
それはななしさん自身にも、どんな他者にもできないこと、
まさに思議することのできない、ふしぎだと思います。
そんな不思議を信じて、委ねることがたいせつだと思います。
応援、ありがとうございます。
励みになります。すてきなことがありますように!
海野つばさ 拝