自分(たち)だけを慰める宗教へ。キリスト者の理想。カール・ラーナー

宗教は(もっと言えばあらゆる文化は人をより切実に、より真剣に現実の真っ只中へと向かわせるものであって欲しいと、ぼくは思います。宗教は現実逃避の手段であってはならないし,一時の気休めであってはいけないと思います。
しかし、実際にぼくの周りを見回してみると宗教が「単なる自己満足・自己慰安」(仲間内での傷の舐め合い)に尽きてしまっていることがほとんどだと思います。
あえて強い言葉で言えば、「宗教をタテにした自分(我々)への引きこもり」ばかりです。「本物を求めている自分たちさえよければ良いんだという居直りの声が聞こえます。

もちろん宗教は「自分自身の本当の幸せ」を目的としてはいますが、その「本当の幸せ」の内に、その人なりの形で、他者との関わり(愛・慈悲の喜び)へ開かれていく面が出てくるはずだと、ぼくは信じています。
周りの人々を分け隔てなく癒そうと志すのが宗教であるはずです。「自分(たち)の幸せ」だけに尽きている宗教なんて、趣味や娯楽と大差ないと思います。
そんな宗教は遅かれ早かれ消えていきます。その人たちだけにとってしか魅力も慰めもないからです。
イエス・キリストは罪人のもとへ、苦しむ人のもとへ、自ら歩み寄っていきました。ブッダも自分の悟りに引きこもることは決してありませんでした。

宗教の美しさは、掛け値なしの、なけなしの、純粋な愛・慈悲の行いにあると思います。

この行いが、するされるを越えて、両者を癒やし、慰め、幸せにするのだと思います。
反対に、「自分(たち)だけ」の幸せを考える集団ほど醜い人たちはいません。宗教団体でも、政治家たちでも、権力者たちでも、自分たちの論理を周りに押し付けるとき、人は一等に醜いです。

今回は20世紀を代表する神学者カール・ラーナーの『あなたの兄弟とは誰か』を参考に、考えます。
⇩殺人犯にさえ注がれるソーニャの愛のまなざし

殺人犯の苦悩を見つめる。『罪と罰』ソーニャのまなざし。

2019年2月8日

宗教に関わる者の怠慢・エゴイズム

ところが私たちの普通のキリスト教生活においては、まるで根本的には私たちは、ただ、祈り、秘跡の拝領、ミサへの参加、罪を避け、償うことによってのみ自分自身の救いを配慮すればよ、その際には、またそのためには、隣人に対して当然、抱く義務への重い違反を避けるだけでよいといったような様子が見えるのである。[…]

普通のキリスト者の生活を見ると、キリスト者の正常の道徳意識においては、誰かが隣人に何ひとつ不正を加えず、またその隣人が誰かに正当に求めうる事柄の要求を満たしたならば、彼は隣人を愛したのだ、という考えが優勢であるように見える。[…]

自分はきわめて礼儀正しくふるまえる生活の知恵による利己主義を、真に人間を無私のものとし、その人を神の測り知れない深みに没入するようなまことの愛とを取り違えているのではないか、と。[1]

彼は「普通のキリスト者」の偽善を鋭く批判します。
「祈って、ミサに行って、人を傷つけていなければ、それだけで十分なのだ」と。しかしそれは、イエス・キリストの歩んだ道とは全く違います。むしろ自分で自分を正しいとするファリサイ派です。
こんなことで、「自分で自分を認め」て安心しているのはキリスト者の生き方ではない。そんなのは、「礼儀正しくふるまえる生活の知恵による利己主義」であり、隣人愛なんかじゃないのだ、と。
それどころか、「隣人愛」のないところには、「神への愛」すらもないのだとラーナーは言います。
神への愛と隣人への愛とは「相互に制約しあっている」からです。

それは事実、この両者が相互に制約し合うことによるのである。
それ自体においてすでに隣人への愛ではないような神への愛とか、また隣人愛の実行によってはじめてそれ自身となるような神への愛などけっしてない。
隣人を愛する人だけが、神とは何者であるかを知ることができる。
そして究極的に神を愛する人だけが(それを反省するかしないかは、それは別の問題である)、他の人に無条件に関わっていき、またその人を自己主張の手段にしないことを成し遂げうるのである。[…]

自分自身から脱して神のうちに入って生きること(Ex-sistenz)、それが私たちの最も深い内面性である。人は神の愛によって愛されることによって、自分の究極的な意味と本質において愛されているのである。
そして隣人への愛の中で真に自分を開くことによって、自分にとって、神を愛すべく、真実の愛の中でおのれ自身から脱出する可能性が与えられているのである。[2]

隣人への愛の中に自分を開くことで自分を脱出し、神の愛に生かされる。
自分を脱し神のうちに入って生きることで、隣人を自己主張の手段にせずに真に愛することが可能になる。
ラーナーのこの視点からすれば、「自己慰撫・傷の舐め合い」をする人々は、神を愛していることにもなりません。
彼らが愛しているのは、ただただ自分のちっぽけなエゴだけです。自分のエゴを慰め、いい子いい子しているだけです。ちょっとあたりを見回せばそこら中にいる、悩み苦しむ人びとに目も遣らずに、自分たちの間でだけ互いに慰め合う。ここに至って、ニーチェのキリスト教批判、ルサンチマン道徳が想い出されます。

神への愛とは、個々の行為ではなく、生活の総体である。

ラーナーは、神への愛が大きく誤解されていることに注意を呼びかけます。
神への愛は、「どれだけ隣人愛の行為を行えたか」だとか、そんなちっぽけなもんじゃない。
生活の全体そのものなのだ、と。

神への愛が、他のもろもろの掟とならぶ個々の、特殊な掟の履行として考えられるならば、神への愛の本質は、はじめからもうほとんど避けられないほど、すでに誤解される。
もし神をただ単にある特殊な一現実として、つまりあらゆる現実の総体のうちのひとつの部分的現実として考えるとすれば、神はほとんど正しく理解されないように、
神への愛は、人間実存における他の多くのもろもろの行為とならぶある特殊な一行為として、その価値が減ぜられてはならない。
神への愛とは、人間生活の自由な営みの総体である。[…]

おのれから脱出して、神のために自分を忘れ、真におのれ自身の名状しがたい神秘、自分がよろこんで身を委ねているその神秘の中に自らを没するときに、そのときにだけ、神への愛はそのあるべきままのものである。
人間は、神を神ご自身のために愛することによって自分の実存の全面的行為において自己の完成に達する。[…]

自分自身を明らかにし、理解させることができるのは、部分ではなく全体だけだからである。[…]つまりこの愛は、個々のものとしてよりよくわかるようになるような要素には分解しえないのである。[3]

神への愛はただ一つの行為、あるいは行為の積み重ねによって表現されるようなものではありません
神への愛とは、「人間生活の自由な営みの総体」です。
決して、決して、「自分はこれだけ慈善行為をやったから十分だ」なんてことにはならない
自分と隣人、そして自分と神とのあいだにうまいこと線引きをして、「これだけ【隣人に】やれば、【神さま】も【自分を】救ってくれるだろう」なんてことは、ありえないはずなのです。
自分が隣人と神とに対して我が身を開き、差し出すことのうちにこそ愛が満ちみちて、その開けの内に神がいるのではないか。

神への愛は、部分ではなく、全体です。自分の生のすべてをあげて、神によろこんで身を委ねているのか。

自由は自らと主体そのものを賭して、神のお住みになる測り知れないところ、限界のないところに入りこむ。
神は結局、この底知れない放下の中でしか経験されえないのである。
もちろんこの自由は、底無しの神性の秘義の中に落下するときに、もう一度自分自身を省みることをしない。[…]

キリスト教の信仰は、ひとつの掟や課された義務の遂行以上のものである神への愛と人間への愛だけが、人間を救いに導ということ、この愛は、掟と預言者たちの全体を指していること、
それにしてもこの愛は、普通の日常生活の謙虚さの中でも生じるが、まさにその謙虚さの中で目立たずに、十字架上のイエスの最後の行為に私たちを与らせるあの最終的な断念と神への究極的な引き渡しが起こりうるということを確信している。
神への愛によって支えられる、この中で実現される兄弟愛こそは最高のものである。そしてこの最高のものは、すべての人に提供されている可能性なのである。[4]

 

問われている「全体」「自らの主体そのもの」とは、私たちが常に既にそこにあり続けている、この「永遠の今」だとぼくは思います。
まさにこの永遠の今において、神に身を委ねているのかどうか。我意を抜け出しているのかどうか。
神の前に、現在も過去も未来もありません。「あのときこうした」も「しょうがなかった」も、いかなる反省、弁明、計算も意味をなしません。
エックハルトを引用して終わりにします。

神は実に現在の神である。
今お前はどうであるか、神の見給うのはそれであり、そうしたものとしてお前を受け取り、抱擁し給う。
過去においてお前がいかなるものであったかは問題でなく、現在今いかなるものであるかが問題である。[5]

[1]『あなたの兄弟とは誰か』カール・ラーナー著,中央出版社,「真の兄弟愛における危険性」より
[2]同書,「神への愛と隣人への愛との相互関係」より
[3]同書,「唯一で、しかも全体的なものとしての神への愛」より
[4]同書,「結語-無私の兄弟愛の神秘」より
[5]『神の慰めの書』マイスター・エックハルト著,相原信作訳,講談社学術文庫「11,もしひと己れの罪に在るを見出さば、いかになすべきか」より

田川建三③「貧しいものは幸い」の虚偽と真理。相手の現実に寄り添うこと。

2019年3月25日

人はなぜ宗教を求めるのか③「私」は「人生の主役」か、「真理に仕える者」か。

2019年2月10日

人は食って寝るために生きる。田川建三①my読書[4]

2018年11月24日

5 件のコメント

  • 教会に通うようになってからずっと感じていた違和感がただの批判ではなく信仰の度合いのようなものとして捉えられるようになっています。ただそこには抵抗もあります。信仰に格差をつけてるのではないか?それぞれ真摯に祈ってるではないか。砕かれるのはいつもまっさきにこのような自分だろうと思います。
    そんな心持ちでいるのでカール・ラーナーからの引用を読み、まずするどく的確に言い当てていることに感嘆し、そして確信をもって批判的であることに驚きました。

    ふつうのキリスト者の偽善であれ、善いものであり、立派だと思います。ただ教会がキリスト者にしかできないことをせず、善い人たちの集まりでフツーの善いことだけしてるのはなんなのだ?!という思いもやはり強いです。
    これはまさに自分の教会の生々しい現実なのですが、しかし古くて新しいどの教会にも普遍的であるような問題なのですね。

    ゆるされ救われ慰められるという受動にとどまっていても、受けた恵みを人にも伝えたいと感じて実践できるでしょう。それで現実にはじゅうぶん教会信徒ですね。イエス様の十字架と復活をそのまま信じずあいまいに流しても、このような教会通いは成り立つと思います。
    ラーナーは批判していますが、キリスト教が一般的にも広がったのは、このような穏健な信仰者の存在にはたしかに道徳的価値があるからではないかとさえ思います。

    十字架と復活と神の国、こられをまともに信じることは、自分が死んで生れなおすことですね。これは認識ではなく存在そのもの、態度、意志の問題ですが、同時に、自力のみではかなわないことだと思います。
    主に驚き、絶望ののちの希望という喜びを知ることが不可欠なのでしょう。このような言葉ではあまりにも安易ですが、ペテロのように底の底まで落ち込み苦しみ、世の中から切り離され、どこにも居場所がない存在にこそ神の国は開かれていると思います。

  • 追加。
    ラーナーの言葉にたいして、的確だ、では足りない感動があります。

    自分を投げ出す、ひとつの賭けのようでありながらまた否応なく引き寄せられるように自分を明け渡す。
    それらは喜びであり、ここに愛があるのでしょうか。
    何度でも読み直したいです。ありがとうございます。

    • すてきなコメントありがとうございます。とても参考になります!
      いくつかに分けて考えながらコメントさせて頂きます。

      1,「善い人たちの集まりでフツーの善いことだけしてる」ように「見える」人びとの本当の心の内は、外側からは見えません。神さまだけがご存知です。
      その人は見えないところでとてつもなく頑張っているのかも知れないし、その人にとっては「フツーの善いこと」が、心を尽くし力を尽くしての隣人・神への愛なのかもしれません。これも神さまだけがご存知です。
      そして裁く方は私ではなく神であり、その裁きは、人間には測り知れない神の真理に基づくものです。
      ですから、わたしたちはただひたすら、我が身を振り返り、自分の自由意志を御心に協力する形で捧げようとする以外にはないのだと思います。
      自己と他者の「存在論的差異」が、ここに神秘的な形で現れているようにも思えます。自分自身に対して、「目覚めてあれ」というわけです。自分自身の重荷さえ、満足に背負えないほどに、私たちの罪は深いと思います。

      2,信仰の度合いについて。
      神の愛には正しさを追求する父性的な愛だけでなく、罪をかぎりなく許し続ける母性的な面もあります(そもそも神の愛を人間が語り切ることなど不可能ではありますが)。
      ですから、信仰の度合いと言ってひとくくりにすることは、問題を大きくくくりすぎて、わけがわからなくなってしまう気が致します。
      やはりこれについても1と同様に、神さまだけがご存知なのであり、我意を捨て自分の意志を御旨に捧げようとする以外に、考えてる暇も余裕もないと、ぼくは思います。他人の行動を見極めてやろうと精査し、批判しているまさにその瞬間に、終末が訪れたとしたら…。恐ろしいです。

      3,「キリスト教が一般的にも広がったのは、このような穏健な信仰者の存在にはたしかに道徳的価値があるからではないか」
      まず「穏健な信仰者」は厳密な意味でのキリスト者と言えるのか、という点があります。(以下も全て、「神のみぞ知る」ですが。)
      そして、キリスト教が「一般的に」広がったことに価値はあったのか、とも問えます。(例えば一般的に広まることで、イエス・キリストの教えは歪められたかもしれません。)
      更に、「キリスト教」もっと言えば「教会の信徒」に「この世界の救い」を限定する必要があるのか。という点です。
      「神は唯一の神であり、全人類の救いを望んでおられる」のであれば、そこに「キリスト教」も「教会」も、一部でしかないと言えるようにぼくは思います。
      (この見方は「教会は神が人類に与えたものである」といった「教会論」とどう折り合いをつけるのかぼくにはわかりません。すみません。しかし、カール・ラーナーの包括主義の立場なんかに、ぼくはとても視点の広さ、希望の大きさを感じます。)

      このあたりの論点から、ぼくは「教会信徒」とか、「フツーの善意」とかは割とどうでも良いことだなと思います。クリスチャンがごくわずかしかいない日本で、気にしてる場合じゃない気もします。
      神の究極的な救いは、時間も生死も、信仰も超越して訪れるのだとしたら、そんなの全部、どうでも良いことです。「新しい創造」は私たちの常識、想像を超えてとんでもなく素晴らしいものなのだと思いまず。
      「主の全知全能を信じ、委ねることで、自分の務めに集中すること」そんなふうにまとめても良いかも知れません。

      さらに言えば、禅道場で修行をしていた経験から、この世に「きれいなところ」なんてあり得ないのだと強く思っています。どこにいっても俗世間です。「え、この人本当に修行をしに来ているの?わがままばかりじゃないか!」なんて人ばかりです。
      修道院に行かれたシスターの方も、同じようなことを言っていました。この世にユートピアを求めてはいけないのだと思います。
      泥中の蓮のように、泥水に思える環境の中で一輪の花を咲かせる覚悟で生きていきたいものです。「狭い門、細い道」です。道徳にはない「宗教の厳しさ」がある気がします。

      4,「自分を投げ出す、ひとつの賭けのようでありながらまた否応なく引き寄せられるように自分を明け渡す。それらは喜びであり、ここに愛があるのでしょうか。」
      この箇所!ぼくも大好きです!ぼくのルーツはやっぱり禅なので、人や物、自然など、あらゆるものと自分との関わり自体のなかに、自分を開き、自分を投げ出し、飛び込んでしまうような感覚にとても共鳴します。「自己を忘れたところ」に愛はあると、強く思います。
      veronicaさんのコメントを頂いてからもう一度本書を読み直し、「日常的な実践の内における自己放棄の愛」についてこの記事では触れられていなかったことに気づきました。
      英雄的な大げさな行為や、「弱者」と関わる行為だけに愛が宿るわけではないと、ラーナーも注意を呼び掛けていました。その点、いつになるかわかりませんが、また新しい記事でご紹介したいです。
      ありがとうございました!また気軽にコメント頂けたら嬉しいです!!

  • ありがとうございます。

    「ぼくは「教会信徒」とか、「フツーの善意」とかは割とどうでも良いことだなと思います。クリスチャンがごくわずかしかいない日本で、気にしてる場合じゃない気もします。」

    教会がヨコつながりの人間関係の場になりがちであることにいつも反発しながら、じつは自分もそこに絡められてるのだなあと、気づかされました。
    自分をとりまくものそして自分自身から解放されて、あらためて、人と関わりたいです。
    日々、広く永く、自由にかつ丁寧に。からっぽになり主にみたされれば、おのずとそうなるでしょうね。

    • 「いつも反発しながら、じつは自分もそこに絡められてるのだなあと、気づかされました。」
      それがまさに、人間の矛盾的なあり方だと思います。ぼくのブログの記事も、「自分が乗り越えたいのに、乗り越えられないこと」を確認するために、書いているようなところがあります。
      「問題は忘れ去られたとき、通り過ぎられたとき」にこそ、解決されているのだと思います。

      被造物ではなく、神さまに外側からも内側からも満たされたときにはもう、キリスト教も、信徒も何もないのかもしれないと思います。
      禅の十牛図を思い出します。悟りにへばりついている内はまだまだで、悟りをも忘れ去って本当に無一物にならないといけない、らしいです。
      十字架の聖ヨハネさんなどは、そんな境地なのかもですね…。まさしく次元が違います。笑

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    ABOUTこの記事をかいた人

    20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。