「あるがままにある世界を、そのあるがままに認める、受け入れる」
「一切の悩みなんて、ただ人間の頭が勝手に作り上げているだけ。むしろ人間は何も考えない方が良いのだ」
といった考え方は、東洋思想が代表する一つの悩みの解決方法だと思います。(あまりにも大雑把ではありますが)
その一つの始原には、『荘子』や『老子』に代表される老荘思想があります。
今回はその『荘子』の万物斉同論をご紹介します。
ちょっとややこしいですが、言いたいことはいたってシンプル
「良い悪いの判断以前の、あるがままの混沌の世界にとどまれ!
そこでお前は世界と一つであって、そこですべてを喜ぶがよし!」と言えるのかな、と思います。
考えに考え抜いて問題を「解決」しようとする西洋的な思想と異なって、
問題を問題だと感じてる自分の心を黙らせて、問題を「解消」してしまうのが東洋思想の特徴だと言えるのかもしれません。
そこで自分の心を「黙らせる」ために、何らかの行(ぎょう)を通して、自分の心を鎮めて行くことを大切にするのでしょう。
大まかな見方で恐縮ですが、そんな見立ても役立つのではないかと思います。
聖人の生き方。全ての存在を喜ぶ
聖人という者は、太陽と月とを膝元に並べ、宇宙の一切を小脇に抱えて、
それらを隙間なく一つに合わせ、それらの織りなすカオスの中に身を置きながら、
己は奴隷の身分と心得て、全ての存在を喜ぶのだ。(中略)
永遠の時間の中での出来事をこき雑ぜて、ひたすら世界を純粋さへと高めていき、
万物を全て然りと言って斉同化して、万物を尽く是とみなして包みこむ。[1]
聖人にとっては、天地万物と我とは一体である。と荘子は記す。万物斉同論である。
全ての存在を肯定し、万物を尽く是とみなすためには、ふだん私たちが前提としている世界の見方(差別の世界)を、まるっきり引っくり返さなくてはならない。
全ての存在を喜び、万物を全て然りといって、包みこむこと。
それは、あらゆる二元論の立場(是か非か)を抜け出すということである。
そもそも「真理を知る」とは?
「先生は全ての者が一様に正しいと認めるものをご存じでしょうか。」
王倪、「私がどうして知っていよう。」
「先生はご自分が知らないということをご存知でしょうか。」
王倪「私がどうして知っていよう。」
「そうだとするならば、全ての者は知を持っていないのでしょうか。」
王倪「私がどうして知っていよう。ではあるが、一つ試しに話してみようか。
そもそも、私の知と言っているものが本当は無知であるかもしれず、
無知と言っているものが本当は知であるかもしれないのだ。 [2]
「全ての者が一様に正しいと認めるもの」つまり真理を「知っているか」と問われた王倪は、「私がどうして知っていよう。」と返す。
真理を「知る」とは一体どういうことかを、王倪は示そうとしている。
一般に「真理を知る」と言えば、「それが誰にとっても正しいと知る」ことであろう。
しかし、真に「知る」ということは、「正しいか、正しくないか」ということではない。
そんな人間の是非の区別を超えて、そもそもの始めから、一切はありのままにあるのである。人間の判断以前に、ありのままに有り続けているのである。
一切をそのあるがままにおいて、認め、受け入れるだけである。そこには「正/誤」も「肯定/否定」もない。知るも知らぬもない。
「それ」を「肯定する」と言ってさえ、嘘になる。反対の「否定」がそもそもありえないからだ。
ただあるがままのことがあるがままにあるだけだからだ。そのあるがままを受け入れるだけだからだ。
否、「受け入れる/受け容れない」といったことすらも不可能である。
そもそもの始めから、常に既にそのようにありつづけているのだ。人間の手が触れる以前のところで、世界はいつでも、あるがままにそこにある。
そのあるがままこそ「正しい!」と言うことすらも、人間の余計な行いである。
知/不知 善い/悪い 正/誤 肯定/否定…
ありとあらゆる分別・判断をやめて、ありのままにあるものを、そのありのままに受け取ることである。ただそれだけである。無為である。何も為さないのである。(無為自然にはもっともっと奥ゆかしい意味があろうと思いますが、今回は流します。)
善悪の彼岸に暮らすことである。悪人も汚物も含めて、全ての存在を喜ぶことである。
そのとき、世界は一である。万物は斉同である。
それはいったいどんな世界か。
是非善悪以前の、事実の世界
是と非という価値を撥無すると、そこには価値なき世界、彼と是の区別だけを認める事実の世界が切り開かれる。
あらゆる物は彼と呼びうるし、あらゆる物はまた是とも呼びうる。(中略)
道が万物を通して斉同にしていることを知っているのは、ただ道に到達した者だけである。
彼はその故に、この万物斉同の思想をも用いず、この思想を世界のあるがままの姿の中に放り出す。
世界があるがままにあることは、この思想を真に用いていることであり、この思想を用いていることは、彼が世界の万物に通じていることであり、万物に通じていることは、その真実態を捉えていることである。
このように、万物斉同を無意識の内に捉えるならば、それでもう完全だ。(中略)
彼ら(道を知らぬ者-引用者注)は、自己の道を愛好したばかりに、あの真の道から遠ざかってしまった。
彼らがこれを愛好するに至ったのは、その道を正しいものとして明らかにしたいと欲したからである。
あの道は明らかにすべきものではないのに、明らかにしようとした。(中略)
こういう次第で、正しいとして明らかにすることの撥無を通じた、乱れた疑わしさの彼方に現れる光耀こそが、聖人の目指すものである。
そのために、聖人は(中略)この知を世界のあるがままの姿の中に放り出す。これこそが、今まで述べてきた、明知を用いることの真の内容なのである。[3]
あれとこれだけの世界。あれは、別のときにはこれになる。すべては相対に過ぎない。
しかしこれは単なる「価値相対主義」ではなく、「絶対的な一(万物斉同)」の前において(もっといえば、万物斉同の内において)は「すべては相対でしかない」ということだ。
すべてはそのままにすべてでしかない。ここにはいかなる序列も、優劣も、区切りもないから、すべては手つかずのナマのまま。混沌であり、その混沌のままに一体でもある。
天地万物と我と一体であること、すべては一であるという認識は、表明してもいけないものである。
「『正しい』と明らかにすること」とは、「是か非か」の立場だからである。
「是か非か」も、「『万物斉同』を自分が知っているか」も、なんにも知らずに、判断しないで、一切は一つであるという万物斉同を、世界のあるがままの中に放り出す。それこそが聖人の道である。
言葉という分別によっては示し得ない世界(すべてをあるがままに、判断(言葉)なしにそのままほっとく世界)
を示そうとしているもんだから、とんちみたいになっちゃうのだけど。
言葉なしに、事実の世界のままに済ますべきところを、「言葉で」語ろうとするもんだから、ややこしくなっちゃう。東洋「思想」の根っこにある自己矛盾だと思う。(「思想」と言った時点で、あるがままじゃない。人間のものになってしまう。)
何も判断しないとき、そこには「悩む自分」もいない。
人は、是か非か、いったい何が正しいのか、自分の拠り所となるものは何で、それはどこにあるのか、と、追い求め続ける。
しかしそうした問いの一切を捨てて、あるがままの世界を感じるとき、そこにもう「自分」なんてものはないということに気づく。
何も判断をしないとき、そこには「自分」もいない。善悪もないし、なにもない。
時間もなければ、生死もない。
ただ流れてゆく世界である。生活している人びと、鳥たち、命あふれる生き物たちが動いている。それだけである。
部屋のなかでも、町のなかでもなく、むしろ森や草木の内でこそ、「万物斉同」を通して、その一部たる自分を知るのかもしれない。
このことを「知る」には、ふだん生活している「言葉の世界」を抜け出さなくてはならない。「言葉の世界」、人間界だけが、他者を評価したり、自分を是非したり、ごちゃごちゃかき混ぜている。
ちっぽけなみじめな、人間たちの世界を、言葉の世界を、抜け出して、もっと大きな大きな、万物斉同の世界に溶け込んで行く必要がある。
そんなことできない!と、ぼくもすぐに言いたくなっちゃうけれど、その気持すらも投げ捨てて、しーらんぺったんゴーリラをする。ほうりなげてしまう。
そうして、ほうりなげたままにしていられたら、悩みもなにもないはずなのだ。
(それがなかなかできないから、坐禅したり、修行したり、お祈りしたりするわけなのだが。)
人間界の外では、いつまでもいつまでも、世界がただ呼吸をしているのである。
聖人という者は、太陽と月とを膝元に並べ、宇宙の一切を小脇に抱えて、
それらを隙間なく一つに合わせ、それらの織りなすカオスの中に身を置きながら、
己は奴隷の身分と心得て、全ての存在を喜ぶのだ。(中略)
永遠の時間の中での出来事をこき雑ぜて、ひたすら世界を純粋さへと高めていき、
万物を全て然りと言って斉同化して、万物を尽く是とみなして包みこむ。[1]
せめて、万物斉同の前に「己を奴隷の身分と心得て」、すこしでも謙遜に生きられたら、自分の勝手なわがままに悩むことも減るのだろうと思う。
人間はややこしいもんだ。
[2](同書,3章,)
[3](同書,1章)
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≪…混沌であり、その混沌のままに一体…≫で、数の言葉ヒフミヨの風景は、4冊の絵本で・・・
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