信仰とは③思想ではなく、実践の積み重ねである。

「信仰とは」シリーズ、第三弾です。
今回はカール・ヒルティの『幸福論』を中心に「信仰とは何か」を考えてみます。
本書は、まさに「生活者」のための信仰書、という気がします。
日々様々に降りかかる出来事の真っ只中で、それでも「生きねば…」とつぶやきつつ、なんとか生きていかねばならない私たち生活者は、日毎の糧を求めています。
今日も明日も生きていくためのエネルギーを必要としています。

そんな生活者が神を信じるとしたら、それはなぜなのか。

神を信じ、神に委ねて生きてくことにこそ、幸せがあるのだ、それ以外に幸せなんてありえないのだ、と実地で知っているからです。経験しているからです。
信じたほうが「合理的」だとか、信じたほうが「楽そうだ」とか、「一応死んだ後も安心だ」、とか、そんな話ではない。
自分の日常を神に委ね、隣人愛を実践し、神と伴にある生活の内に、実際に心の平穏を経験したのかどうかです。「ただの一日」に、心から幸せを、祝福を感じたことがあるのかどうか、です。
ヒルティの言葉は、そんな「生活者」にとって、救い(心の平穏)を求める人々にとって、とても勇気の出る、背中を押してくれるものだと思います。
それでは、一緒に味わって参りましょう。(岩波文庫の3巻本ですが、すべて「第三部」からの引用になります。)

信仰に必要なのは熟慮ではなく、実行である

神に対する信仰は、ひとがあまり考慮をかさねないで、神に自己を実際に委ねるならば、まったくひとりでにやって来る
すべての熟慮は、ただそれを避けようとするねらいであることが多い。
神の前によみせられる義は、われわれがキリストをわれらの王、かつ救い主として無条件に受けいれることによって与えられる。
そのあとで、われわれは神の賜物としての義を、それを実行しうる力とともに受けるのである。
しかも、それについては、以後すこしの辛苦も心配もいらないというのだ。
これがすなわち「キリスト教」である
これ以外のものはすべて哲理であり、それを研究する人が学問上で大いに成功して権威者となるには役立つであろうが、自分自身の幸福にとっては不十分なものである。[1]

「神は人間の妄想じゃないのか?本当にいるのか?」等を思い巡らし続けていても、神に対する信仰は、やってこない
むしろそうした熟慮は、「神にまったく身を委ねること」を避けようとすること、言い換えれば、「ひざまずきたくない(=『私』が自分の人生の王様でいたい)」ことの現れである。
これらの思い巡らし、熟慮の行いは、決して「キリスト教」ではなく、ただの「哲理」に過ぎない。
それは己一個の幸福とは何の関わりもない、単なるアカデミックな遊戯・暇つぶしに過ぎない。

求められているのは、キリストを我らの主、かつ救い主として無条件に受け容れ、ひざまずいて一介の罪人に過ぎぬ自己を認め、憐れみを乞うことである。
そのようにして、神の前に自分の我をへし折り「父なる神よ、我が救い主よ」と己を主に委ねようとするとき、「神の賜物としての義を、それを実行しうる力とともに受ける」と、ヒルティは力強く語る。
これが、ヒルティの人生を貫いてきた、また、彼が身の回りに見てきた信仰者の事実である。

人は信仰を持つほうが幸福であることを経験せねばならない。

人間は信仰を持つのが正しいこと、そして、不信仰よりも信仰を持つほうが幸福であることを、
みずから経験して知らねばならない
――それも、しばしば長いあいだにわたり、苦痛を伴いながら
こういう経験からのみ、単にうわべだけの信仰告白でなく、確固とした信仰、ほんとうの確信が生まれてくる。[1]

自ら経験して知ること。冷暖自知。
宗教の根源は、思想でも理論でもない。自分が「それ」に触れることである。
各人が各人の人生において「実行して、経験する」以外に、近づくことはできない。
「信仰」は、決して人から譲り受けることはできない。一人の人間の人生において生まれ、その人の死とともに消えてゆくものである。
「それも、しばしば長いあいだにわたり、苦痛を伴いながら」。
「宗教は人を手っ取り早く救ってくれる」なんて妄想は、さっさと捨ててしまった方が良いだろう。
「安易な救い」を求めて次から次へと新たな門を叩いていれば、その内ヤバい団体に捕まってしまうのがオチだ。禅の世界でも「あの老師は…この老師は…」と外から批評するばかりで、どこの寺にも落ち着かずに、ふらふらし続ける人がいる。それじゃあ何の修行にもならぬ。
100%納得できる道はなくともどこかに腰を据えて始めねばならぬ、生きねばならぬ。

この世に楽園なんてない。蓮は泥水の内から咲き出づる。諦めて、与えられた場所で修行する、励むのが、遠回りなようで一番の近道なのだろう。急がば回れ。あらゆる「道」についても同じように言えると思う。
すぐに得られるものは、だいたい役に立たない
キリスト教は神の恵みを信じるものであるから、こうした常識をすっ飛ばして信仰の場に移して頂けるということもあるだろう。でもそれは、神の御心であり、はじめから期待し、願い求めるものではないのではないだろうか。
倦まず弛まず神に委ね、隣人を、敵を愛すべしとの御言葉に従おうとし続けること
信仰の内にこそ幸いがあるのだと、自分自身で経験するまでの辛抱である。

信仰とは神に対する従順であり、勇気を伴う一つの習慣である。

信仰なるものは、そのどの段階においても、決して安全確実な所有ではない
むしろそれは、魂の奥底のつねに安らかな一点によって、内外の幾多の困難を克服していく一つの習慣にほかならない。
したがって、信じる力もまた、一度にまとまって、いわば一種の資本のように与えられるわけでなく
その時その時に応じて授けられる。
そこで、この点でも、明日のことを思いわずらうな、である。
将来のさまざまな困難は子見できるのに、その時あたえらるべき力は予見できないという点に、誘惑がひそむのである。(中略)
信仰とは、神に対する従順を本体とする、理想的生活への勇気である、と。[1]

「あぁ、これでこれから一体何が起こっても平気だ!もう悩むことなんてありえないし、不安になることなんてありえない!」
そんな言葉は、信仰の内からは出てこない。信仰は「安全確実な所有」ではない
内より外より迫りくる幾多の困難を、己が魂の奥底に沈んでいる絶対的な静謐でもって、何度でもやり過ごし、乗り越えてゆく習慣こそ、信仰であるとヒルティは語る。
それは理想的生活への勇気であり、七転び八起きの神への従順である。

そして信仰とは、何よりも神へ、自分の日々の命を委ねることである。
だからこそ神は、前もって信ずる力を与え給わない。信仰の前借りはできない
「私に信仰なんてできるのか?そんな力なんてない。」との嘆きは、自分で計画し、判断しようとする「自力」の立場である。
「私に力なんてない。全く無い。だが神にできないことはない」として、「日毎の糧」を祈り求めるのみである。
「明日のことを思い煩うな。明日は明日自ら思い煩わん。」とは、信仰の出発点にして、目的地である。
「私にはできっこない」という誘惑を振り切るのは、自分ではなく神への信仰である。イエス・キリストを我が救い主と信じることである。

知識でも才能でもなく、意志と経験が信仰を生む。

信仰は才能のように生まれつきのものでなく、知識のように教えこまれたものでもない。
それは、本質的には、意志されたものである。
まず、われわれのがわに決意があって、そのあとに経験が伴うのである。
実際には、信仰は神の力との結びつきであり、その力がやがてわれわれの内部において、さらに外に向かって、はたらくことになる。
そこから信仰の力は生ずるのだ。(ヨハネによる福音書七の三八)
どんな人の場合でも、信仰は初めは小さく、かつ不安定であって、成長が必要である。信仰の成長と歩調を合かせてその成果も増していく。
いわゆる最も偉大な「信仰の英雄」たちも、信仰の弱い時を十分に経験した。
使徒たちや、また、ある意味ではキリストでさえも、そのような時をまぬかれなかった。しかし、それを克服するたびに、信仰は成長する。およそれ以外に成長の道はない。[1]

信仰は生まれ持った才能でも、蓄え積み上げてゆく知識でもない。
神への従順とともに送られる「平凡なる日常」の経験の内から生ずるのが、信仰である。
誰しもはじめ、信仰は小さく不安定である。決意も弱く、経験も少ないのだから、当然のことである。
しかし雑多なる日々の忙しさのうちで一進一退を繰り返しつつも、経験を重ね、何度でも決意をもって立ち上がれば、信仰はすこしずつ成長してゆく
からし種ひと粒が…である。信仰の神秘である。神の恵みである。
それ以外に、人間にできることはない。
宗教は現実逃避であってはならない
真の宗教は、この現実を内側から突き破るものである。この現実の外に逃げようとするのではなく、むしろひたすら、この現実の中で、徹底し尽くすのである。
自分の魂の奥底の一点に燃えている静かな火をもて、日々の雑多なる日常を燃やし、糧とし、耐え抜き生き抜くのである。
この現世において、神の国(愛)を生み広げんとするのである。

現代の問題の核心は、目に見えぬ世界を信じるのか否か

今日、一切の宗教的もしくは哲学的問題の核心を、目に見える世界のほかに目に見えぬ世界を信するか否かという問いにしぼることができる。
なぜなら、学問的認識の意味で、目に見えぬ世界を知ることは決してできないからである。
元来、神学は、ただ学問としてのみ考えれば、実りのない学問である。ほかの学問的知識と厳密に同じ意味でなら、神についての「知識」はおよそ存在しないからだ。
もし目に見えぬ世界を信じないとしたら、われわれは多くのぬけ目なさと骨折りを費して、しかも同時に、他人に対する多くの恐怖と冷酷を持って、これという最後の目当てもない人生を押し渡ろうと試みなければならない
そしてその際、さまざまな困難をせめて刹那的にいくらか埋め合わせるために、何か享楽が必要になってくる。
この場合、享楽よりましなものはないわけだが、しかも老年や病弱や逆境などの邪魔物がわり込んでくれば、それさえはなはだ疑わしいものになる。

反対に、目に見えぬ世界を信ずる場合は、すでに現世において自己の存在の一部をもってより良き世界秩序のなかに生きることができ、地上のあらゆる欠陥に耐えることを学ぶ。
というのは、この目に見えぬ世界によって絶えず破滅から救われ、また、その世界の力を、現在すでに、ますます強く経験するからである。
けれども、われわれはこの道をただひとすじに進まねばならない
それを歩きながら、同時に他の世界の享楽や利益をも欲しがってはいけない
そうなれば、いや、そうなってのみ、この道の驚嘆すべき祝福をしたしく体験することができ、そのあとはもはや疑念のわくこともないであろう。[1]

現代世界は、目に見えないものを認めない。数値化されえぬものを信じない。考えすらしない
数値化の単位は多くの場合「個人」である。この単位で持って、人は互いに競争しあい「ここで得した、あそこで損した」などとつぶやきながら、そのみじめな一生を終えていく。
目に見えぬ、数値化され得ぬものにこそ幸せや心の平穏があるのだと知っていたら、そんな冷たくみじめな道を歩くだろうか。

この目に見える世界は、どれだけみじめだろう。
できるだけ多くの快楽を求めるならば、金持ちになる以外にない。しかし金持ちになれるかどうかなんて、生まれた環境による。環境が悪ければ、努力する以外にない。努力できなければ、人を騙す以外にない。
人を騙せなければ、悪態をつきながら地道に働くしかない。地道に働くことすらできなければ…。
金持ちになり、日々快楽を重ねてところで、待っているのは倦怠と、傲慢と、この世には何もないと知る虚しさだけである。

我心の中に語りて言ふ 嗚呼我は大なる者となれり 我より先にヱルサレムにをりしすべての者よりも我は多くの智慧を得たり 我心は智慧と知識を多く得たり
我心を盡して智慧を知んとし狂妄と愚癡を知んとしたりしが 是も亦風を捕ふるがごとくなるを暁れり夫智慧多ければ憤激多し 知識を増す者は憂患を増す(中略)
夫智者も愚者と均しく永く世に記念らるることなし 來らん世にいたれば皆早く旣に忘らるるなり 嗚呼智者の愚者とおなじく死るは是如何なる事ぞや
是に於て我世にながらふることを厭へり 凡そ日の下に爲ところの事は我に惡く見ればなり 即ち皆空にして風を捕ふるがごとし
(伝道者の書(コヘレトの書)1,2章より抜粋)

人は日々生まれ死んでゆく。
この世の表舞台に昇る人の後ろでは、彼らを呪い人知れず去ってゆく人がいる。
都心に行けば、ホームレス状態の人がいる。役所の窓口は彼らを追い返し、心も身体も殺してゆく。
これ以上言葉を重ねることは辞めよう。現実の内に目をこらしてみれば、見えてくる。

人の世はいつも愚かで、幸福はいつも蔑まれ、愚かな快楽ばかりがもてはやされてきたのだろうと、ぼくは思う。
だがその一方で、目に見えないものを信じ、この現実を慈しみ、人々を愛しつつ暮らし、死んでいった人々がいたこともまた事実だ。

目に見えぬ世界を切り捨てた先に残るのは、無意味な偶然が寄せ集まっただけのモノクロな世界であり、そこに偶然生まれさせられたちっぽけな私。次第に老いて朽ちてゆく私である。

決してキリスト教に限らないが、
目に見えないものを信じ、それを実践するならば、世界は背後から色づけられて、まったく別の、鮮やかな世界になる、少なくとも、そう思える一日が生まれるのではないかと思う。


[1]『幸福論ー第三部』ヒルティ,岩波文庫「信仰とは何か」より

同じくヒルティの『眠られぬ夜のために』という著作もおすすめです。
こちらは365日、各1,2ページくらいの短いキリスト者向けの文章が書かれています。『幸福論』とはまた違う味わいの、優しく穏やかで、ときに内省を誘う名著です。
眠る前にこれを読み、味わうことを習慣にしたらすてきなことだと思います。(第一部だけで365日ありますので、とりあえず一冊あれば良いと思います。)

 


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20代。早稲田大学を卒業。大学時代に生きることに悩み、哲学書・宗教書・文学書を読み漁った結果、頭だけで考えても仕方ないと悟り、臨済禅の坐禅道場で参禅修行を始める(4年間修行)。 2020年に(カトリック)教会で洗礼を受ける。 路上お悩み相談(コロナ禍によりお休み中)や、SKYPE相談・雑談、コーチング、生きねば研究室など、一対一の本音で対等な関わりを大切に、自分にできることをほそぼそとやっています。