前回は「自己への不信・自意識の闇」に留まることに耐えきれずに宗教を求める、という流れになんとか強引にまとめきりました。
けれども、ぼく自身のなかで「宗教を求める」という気持ちは決して整理されているわけではありません。生物の分類と同じように、頭の中の整理も結局後から付け足したもの、虚構に過ぎません。元来すべては分節以前の混沌としてあります。
そのため今回はあえて整理をしすぎずに、ぼくが宗教を求める源にある「自己には一切の希望がないこと」にふらふらと降りて行ってみたいと思います。
(前回記事で説明した「自己への不信」は、言わば前提のようなものです。自分を信じられるのなら、自分で自分を改善し良い方向に自分を変えていこうという、希望をもてます。
しかし自己への信の上に立って始めて可能となる改善が、自己への不信から不可能であると知っているからこそ、絶望なのです。手も足も出ないという心境になるのです。)
自分に対する救いのない絶望
人間に未来は見えません。次の瞬間には何が起こるかはわかりません。自分のこころも、わかりません。一体何がしたいのか。たとえ今の望みが果たせたとしても、数分後には後悔をします。なんであんなことを望んだのだろうと、自分の心をかきむしります。また同時に存在する、矛盾する2つの欲望に自分の体はひきちぎられるようです。
次の瞬間には何をするか、人を自分のわがままの手段として傷つけたり、損なうかもしれません。そしてそのことをさっぱり忘れて、人は何度でも過ちを繰り返します。根本的に愚かです。
不安は決して尽きることはありません。この泉は無尽蔵で、不安はこんこんと無限に沸きます。たとえ巨万の富を築こうと、最高の権力を手にしたところで同じです。
この世は決して思い通りにならず、人は死にます。人間は有限です。あらゆる偶然に取り囲まれ、自分は何を失うか、びくびく怯えています。この有限性・偶然性を受け入れることができないとき、人はなんとか自分の身を守ろうとします。自分の身の回りの環境を固め、少しでも安定を得ようとします。
さてこんなとき、人は自分のことだけを考えます。
自分が持っているものを、自分の未来を、自分の偽りの安心を、守ることに一生懸命、必死です。周りに同じように生きている人々がいることを忘れ、目の前の現実を忘れます。周りの生命を犠牲にして生かされていることにも気づかず、ただただ自分の不安を取り除くことに精一杯です。
人はわがままになります。自分のことしか考えられなくなります。人を傷つけます。たいていそれにすら気づきません。自分を守ることにせいいっぱいです。
縁あってそんな自分の過ちに気づいたとて、我に返ったとて、問題は解決しません。いくら反省を誓っても、人間の意志は続かないからです。
反省しているのもほんの数分、気づいたら忘れている。また同じことを繰り返している。いくら誓ったって、無意味です。逃げ場なし、希望なし、反省の甲斐なしです。
反省も誓いも、全ては横滑りしていく
歩くエスカレーターのように、全てが横滑りしていくイメージがぼくにはあります。どんどん横に流れていく。そこに一つの誓いを柱として打ち立てたって、無意味です。人生は縦に積み上げて進んでいくのではなく、ひたすら横に滑っていくのです。自分の意志とともに流れ去っていくのです。
何度も何度も誓いを立て、反省を立て、柱を立てますが、横へ横へと流れ去ります。ふと振り返ってみれば立てられてすぐに放置された柱がむこうまでズラーッと並んでいるのが見えます。
「人にやさしくしたい」「夢を実現したい」「あの人を愛する」「関わる人をみな大切にする」・・・建てられ、忘れ去られた誓いが、さみしそうに並んでいます。
全ては徒労。反省も無意味です。かといって、自分が嫌で、いまの生活を続けたくはない。
決して幸せじゃない。幸せになりたい。いやそれ以前に、そもそも人間であることが嫌だ、誰か助けてほしい…
これはぼくが感覚した紛れもない一つの現実です。ぼくにとっての不安とは、自分に対する不信であり、その自分が人を傷つけることに対する嫌悪であり、改善の希望のない絶望であり、最後にこれらすべてを含んで、自分が自分(人間)であることが嫌なのです。
「根本から腐りきった自分」を変えたい
ここで問題となっているのは、「自分自身(人間自身)の腐りきった、容易には変わらない在り方」です。いろいろ試したり、考えたりしたけれども、これまでと同じような方法ではとてもこの自分が変わるとは思えない。そこで、「宗教」が出てくるわけです。
このときに現れる「宗教」が意味するところは「自分自身の在り方を根本から変えるもの」です。
それは「信仰による自己の転換」でも良いですし、「修行を通じてひたすらの鍛錬」でも良いのです。ぼくの場合は、大学二年生のときに臨済禅の門を叩くこととなりました。
いずれにしても、自己のあり方に絶望し、これまでの方法によっては全く希望を見出すことができないというとき、そんな絶望からの救いを期待して、「宗教」を求めるときがあるのではないかと思います。
自己自身においては何らの希望が見いだせないからこそ「宗教」に何か革命的な打開策を期待するのです。この絶望の底にあってこそ、心の底から「神よいるなら助けてくれ!」との叫びが噴き出すのです。
ここにこそ、「神の出る幕」があります。自己自身によっては抜け出し得ないゆえに、神の救い、恵み、恩寵を求めるのです。自己を超えた存在を求めるのです。
モンテーニュ『随想録』「同一のものを欲し、避け続ける」ことの困難
彼は嘗て望みたるものを早くも捨て、今捨てたるばかりのものを再び欲す。彼は常に動揺し、その人生は絶えざる矛盾。(ホラティウス)
我々の普通のゆき方は、身を機会の風の運ぶのに任せて、右に左に、上に下に、ただただ欲望の赴くところに、これ従うことである。我々が自分の欲する事柄を考えているのは、これを望んでいるその瞬間だけで、あとはまるで置かれた場所によってその身の色を変えるというあの動物のように変る。たった今企画したばかりのことを我々はじきに変える。そうかと思うと、すぐまたもとのことにもどる。要するにそれは動揺と不定とにすぎないのである。
我々はあたかもあやつり人形の如く、外なる糸に操らる。(ホラティウス)
我々は自分で行くのではない。運ばれてゆくのだ。まるで水に浮いた物のように、波が怒っているか静かであるかによって、あるいは静かにあるいは荒々しく。[…] われわれは日ごとにちがった思いをもち、我々の心持はお天気とともに変る。[1]
自分自身を見つめ、自分自身のことだけを書いたと言う、モンテーニュから引用してみました。
自分自身をありのままに見つめてみたときに、そこにあるのは「残酷なきまぐれ」と、それに尽きるみじめな人間の生のありさまです。
古代全体を通じて、自分の生活をしっかりした一定の方針に従わせた者を、12人選抜するということはなかなか容易でないが、そのように生きることこそ知恵の主要な目的なのである。全く古人[セネカ]が言ったように、知恵ということをただの一語のうちに含めるならば、そしてただひとつの規則に我々の生活上のすべての規則を一括するならば、「それはいつも同一のことを欲しつづけ避けつづけること」だ。[…] 「すべての特性の始まりは熟慮熟考であり、その完成は心がわりしないことである」と。[2]
「いつも同一のことを欲しつづけ避けつづけること」「心がわりしないこと」一見かんたんそうに見えて、この「知恵」を得るには狭い狭い門(それは細長い門でもありましょう)をくぐり抜けなければならないのです。
「宗教を求める」というのはこの「知恵」を求めるということと、ぼくにとっては同じであると思います。
「変わらない自分を求める」これだけのことが困難で、人間のみじめさの原因なのです。
[2][前提書、同章]
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