十字架への自らを犠牲にしたイエス。「敵」である人間を愛しゆるすために。
「非信徒からみたキリスト教の魅力」第二弾の今回は、「究極的な愛のモデルであるイエスにならって生きること」です。
キリスト教の論理では、神とその御子イエス・キリストは、「敵」となった人間たちをそれでも愛し、赦すために、自らを犠牲に捧げたと説きます。「敵」でさえある相手のために自らの命を捧げる、自己放棄的な愛の究極的な行為です。
自己の、人間のエゴイズムを厭い、どうしたらその醜さから逃れられるのか悩む人、
人を愛したいのに、愛せない、その矛盾に苦しむ人など、
「愛」にまつわる迷いに苦しむ人々にとってイエスが示す道は、一つの「道」ではないか…そんな話です。
そもそも神の自己犠牲的な愛とは
そもそも神の自己犠牲ってなんじゃい!?という方のために、非常に簡単にですが確認します。(キリスト教の大前提として、世界を創造した「父なる神」がいて、その神が遣わしたのが自らの子であるイエス・キリストです。父なる神は子であるイエスを十字架の生贄に捧げることによって、自らのあわれみから、人間の罪を許しました。)を
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった」(ヨハネによる福音書3:16)
ここに引用されたことばは、古来「小聖書」と呼ばれてきた個所である。つまり、全聖書を代表することばという意味である。[…]いったい、父にとって子は最愛の対象であり、喜びの源である。父なる神にとってもその通りであった。しかも、聖書によれば、父と子は一体であり、したがって、父が子を与えるということは、
自己が自己を与えることであり、父が子を犠牲として放棄することは、自己が自己を犠牲として放棄することである。
けっきょく、この聖書のことばが言おうとすることは、神がこの世を愛したとき、その愛は自己犠牲的な愛であったということである。
それでは、世に対する神の愛はなにゆえに自己犠牲的であったのだろうか。それは、世が神にそむいて、神の敵となっていたからである。そのかぎり、世は神にとって無価値的、否、むしろ反価値的な存在であった。[…]愛が、自己にとって無価値的な、さらには反価値的存在にむけられるときには、その愛はかならず自己犠牲的となる。自己を否定し、自己を放棄し、自己を犠牲とするのでなければ、敵を愛することはできない。
神は神にそむいて敵となっていた世を愛したとき、自己を否定し、自己を放棄し、自己を犠牲とせねばならなかった。[1]
引用文の要旨は簡潔ですので、補足的にキリスト教の前提知識を説明します。
神は世界と、そして人間とを創りました。アダムとイブが神に禁じられていた木から実をとって食べてしまったという、有名な最初の人間の裏切りのあと、人間の最初の夫婦であるアダムとイブはエデンの園から追放されました。その後も人間は、神を何度も裏切り続けます。そして神も、それを何度か赦したり、裁いたりします。『創世記』の序盤は、人間の裏切りと神の赦し、神の期待を何度か描いています。
そんなこんなで、人間は神を裏切り続け、神が与えた律法をも破り、堕落し続けます。
そうした緊張関係の果てに、ついに神が人間たちに遣わした子がイエス・キリストです。彼はこれまでの人間の犯してきた罪、またこれから犯すであろう罪を全部帳消し、チャラにするために送ってきた救世主なのです。
この救世主が、この地上においてどんな屈辱と迫害と誤解とに遭い、それでも忍耐し続け最後には十字架に架けられて死に、復活した。詳細は新約聖書、諸福音書をお読みください。
簡単にいえば、神が人間を赦すために出血大サービスで送った息子イエスを、人間たちはボロ雑巾のように扱い、処刑し十字架につけます。
そしてイエスはその自分の運命を知っていながらも、人間たちに自分をいじめるに任せ、自らをはりつけにするに任せたのです。それもこれも人間を赦し罪を帳消しにしてあげるためです。自分たちに背く敵である人間たちを赦す。
これが神と御子イエスの自己放棄的な愛です。
全知全能である自分に、ただのわがままから歯向かってくる愚か極まりない人間たちを赦すために、わざわざ人間の身をもって(受肉)、人間の苦しみと痛み、死へ向かう迫害を忍耐し、自らを生け贄にささげるというわけであります。
さて、人は他者(隣人)を本当に愛するためには、自分の利益、安楽、怠惰、個人的欲望、時間(限られたいのち)、その他を犠牲にすることを求められます。愛とは、自己愛(狭い意味での自己、小我への愛)と矛盾する行為です。ここに他者を「愛そうとする」ことの苦しみがあります。困難があります。
神はこうした自己放棄的な愛を、圧倒的なスケールにおいて実現した、愛の究極的なモデルであるといえます。
隣人を愛することは、「キリストにならう」こと。
ロックンロールの夢を追う人にとってはQUEENのフレディが、哲学者としての自分の生を思索に捧げたいと思う人にとってはカントが、エロティシズムの果てを窮め尽くそうという人にとってはバタイユが、それぞれ自分の人生や生活のモデルとなるように、
隣人を愛すること、自分のエゴイズムを捨て去ることに、己が生涯を捧げたいと思う人にとって、この神と御子イエスは人生のモデルとなり、生活の模範となり、苦しいときに足を踏ん張る大地となります。
他者を愛そうとすること、自分の無限大に広がっていくエゴイズムを克服しようとすることは、先の見えない茨の道です。
しかし、それでもどうにかしたい、諦められないという人も、ゼロではないでしょう。(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』から人間の愛の矛盾について書いた記事はコチラ)
前回の記事でも、「神に祈れる」ということが人間の孤独を打ち破ると書きました。
今回も同様に、隣人を愛し、人を愛し、世界を愛したいと願う人にとって、神と御子イエスは最高のパートナー、友であり、また父となります。死に至るまで愛を貫き通した最高のモデル、イエスがあるのです。
ここで、「第二の福音書」と言われることもある(らしい)『キリストにならう』という著作から、キリストを支えとして生きる人の認識(あるいは忠言)が出ていると思う箇所を引用します。
(なお「十字架」とは、「キリスト者がイエスの苦しみを想起することを目的とし、それによって十字架は十字架上でのイエスの死から生じた救いの犠牲の大きさと事実を強調する」[2]ものです。)
見よすべては、十字架を担ってその上で死ぬことにある。
そして、生命と真の平和とに導く聖なる十字架の道と、日々の苦行以外に道はない。[…]あなたが何の慰めもなく、患難によってさらに謙虚になることを、神は望まれる。キリストの苦しみに似た苦しみを忍ばなければならなかった人よりも、キリストの受難を理解し得る者はない。
だから、十字架はつねに備えられていて、どこでもあなたを待っている。あなたはどこに逃げても、それからは逃げられない。あなたはどこに行っても、自分自身と一緒であり、どこにもあなた自身を見いだすからである。上にも下にも、外にもうちにも、どこでも十字架を見いだすであろう。[…] この世で生活したどんな人間も避けられなかった十字架を、あなたが避けられると思うのか?この世で十字架を担わず、患難を味わわなかった聖人がいるであろうか?主イエス・キリストさえも、生きている間は一瞬たりとも、受難の苦しみを感じないわけにはいかなかった。[…] それなのになぜあなたは、尊い十字架という、この栄光の道以外の道を探そうとするのか。
キリストのご生涯は、十字架と殉教とであったのに、あなたは休息と喜びだけを求めようとするのか。[…]この世のはかない生活は、まことに悲惨であって、十字架に取り囲まれたものである。[…] だからあなたは、キリストの忠実なよいしもべとして、あなたを愛するあまり十字架にかけられた主の十字架を、雄々しく担っていきなさい。
あわれなこの人生において、多くの逆境と不幸を耐え忍ぶ心の備えをしなさい。なぜならば、あなたはどこにいても不幸に見舞われ、どこに逃げても苦しみにあうからである。それは避けがたいことである。[3]
この本はキリスト教的修徳生活のすすめとしてとても広く読まれたらしいですが、この箇所がぼくはとても素敵だと思います。
「日々のいかなる困難にもめげず、ただ己の愛を貫き通せ。主なるイエスも我々を愛しゆるすために、同じようにしたのだ。」という強いメッセージがここに見えます。
こうした認識を真に血肉とした人間は、我々とは全くちがった世界を生きることでしょう。彼にとって、「隣人を愛すること」は多くの逆境と不幸とを招く、「当たり前に」苦しい道であります。しかしそれでも、自己を放棄する痛みを知りつつも、彼を、「敵」を愛するために耐え忍ぶ、それはイエスが私たちを愛してくださったことにならう、「キリストにならう」ことなのです。
これは決して一人での道ではありません。イエス・キリストが歩んだ、示した、見守る道であり、イエスが唯一あなたに求める道なのです。イエスは社会的成功も、富も、地位も名声も、あなたには求めません。ただ隣人を愛し、神を信じることを求めているのです。
イエスの愛のモデルに寄り添って生きること
以上のように、「究極的な愛のモデル」とともに生きられる、ということにキリスト教の一つの魅力を感じます。
周りの人をしあわせにしたい、喜ばせたい、愛したい、そう思い、そう生きようとして挫折し、絶望し、孤独を感じ、すべてが嫌になってしまう人も多いと思います。
そんな人にとって神・イエスの愛を信じモデルとすることは、何度でも立ち上がる盤石な大地となり、自分に寄り添い応援してくれる聖霊となり、そのすべての努力を包み込んでくれる母となり、その他あらゆる慰め、力の源、勇気となるのではないでしょうか。
実際に自分がお世話になったり、助けられたり、尊敬する素晴らしい人間がいたとして、その人の存在がそれ以後の人生を生きる上でとてつもなく大きな支えになるということも、もちろんあるでしょう。
しかしキリスト教の場合、そこに父なる神が御子イエスを遣わし、人類を愛するが故に十字架に架けられて死に、復活し…etcといった「宗教的」な、人間・自然を超えた無数の要素が関わってきます。
だからこそ、「人によっては」ですが、この愛のモデルによってより大きなエネルギーをもって生きることができるのではないかと思います。
さらに言えば、こうした尊敬すべき人間と出会うことができなかった人にも、このイエスをモデルとして生きる世界は誰にでも開かれています。「世界宗教」たるゆえんであります。
キリスト教の愛と思うと、全然書き足りない気がしてきますが、今回はとりあえず「究極的な愛のモデル、イエスとともに生きる世界」ということで、終えたいと思います。
[2]『キリスト教の霊性』A.Eマクグラス著,(稲垣久和,岩田三枝子,豊川慎,訳)6章,「キリスト教シンボリズムー十字架」より
[3]『キリストにならう』(バルバロ訳)ドン・ボスコ社,2001,2巻12章「聖なる十字架の栄光ある道」より。なお原著者はよくわかっていないようです。( 池谷敏雄訳もおすすめです。岩波文庫の訳は古すぎてぼくは苦手でした。(バルバロ訳は、銀座のサンパウロ社には定価でおいてあるのをこの前みました。)
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