「序言」で確認された『道徳の系譜』の2つの主題とは、
1,
ということでした。
今回の記事では1の問い、
『善悪という「道徳的」価値判断はどのように生まれたのか』
に注目して『道徳の系譜』を読んでいきます!
一言で言えば、「善悪」「道徳」とは、弱者のルサンチマンによって生み出されたものです。
また、「ある一つの価値判断」を、その成立の起源にまで遡って問うことは、
自分が縛られている「ひとつの価値判断」から自由になるきっかけともなります。
「道徳」に過度に縛られている人は、本書を読んでその自縄自縛から解放されるかもしれません。
一方でニーチェの強者賛美、弱者蔑視にあまり踊らされないように、
自分で自分はどう感じるのかを大切にしながらも、ニーチェの主張を読み取っていきましょう。
ここで大切なのは、「道徳というひとつの価値判断」から自由になることであって、
決して「強者賛美、弱者蔑視」という「反道徳」を新たな「権威」として受け取ることではありません。
それでは単に権威のトップの首をすげ替えただけのことで、自分で自分なりの価値創造を行う「超人」ではありません。
論文の途中でヒートアップし過ぎて「理想製造工場」に潜入させた隊員と連絡を取りはじめる(!?)
ニーチェの情熱も見どころです!
支配者階級=よい、被支配階級=わるい、という原初の対立
低級な種族つまり〈下層者〉にたいする高級な支配者種族の持続的・優越的な全体感情と根本感情
ーこれこそが〈よい〉(優良)と〈悪い〉(劣悪)との対立の起源なのである。
(『道徳の系譜学』ニーチェ著,信太正三訳,「第一論文」の2,ちくま学芸文庫,ニーチェ全集11,)
ここでは、「よい」か「わるい」かという価値判断の対立の起源が示されています。
ニーチェによれば、「よい」か「わるい」かという根本的対立は、もともとは身分の対立を起源としていたのです。
支配者階級的な感情=よい
下層者的な感情=わるい
というのがこの対立の起源でした。
それを語源から考えてニーチェは以下のようにも述べます。
どの言語にあっても、身分上の意味での〈高貴〉・〈貴族的〉というのが基本概念であって、
そこから精神的に〈高貴〉・〈貴族的〉とか、
また〈精神的に高潔の資性をもつ〉・〈精神的に特権を有する〉とかいう意味での
〈よい〉(優良)の概念が必然的に発展してくる。
この発展とつねに平行してすすむ例のもう一つの発展があって、それは〈野卑〉とか
〈賤民的〉とか〈低級〉とかいうのをついには〈わるい〉(劣悪)という概念に変えてしまう。
(前提書、「第一論文」4)
語源から考えてみても、
「高貴」・「貴族的」といった言葉が元になって、「よい」(優良)という概念が生まれ、
「賤民的」「低級」といった言葉が元になって。「わるい」(劣悪)という概念が生まれたのです。
この考え方は理解しやすいのものではないでしょうか。
つまりは
「偉いもの・強いもの・優れたもの」=よい(優良)
「下層のもの・破れたもの・負けたもの」=わるい(劣悪)
というわけです。
一言で言えば弱肉強食、強きものが正しい(よい)という価値判断の世界です。
「おいおい、ニーチェさん、何を当たり前なことを言っているんだい
そんな弱肉強食の世界にあって、あえて護るべきものが道徳なんだろうが!」
そう思うのも当然かもしれませんが、ニーチェの本領はこのあと発揮されていきます!
仔羊たちのルサンチマン爆発!道徳における奴隷一揆が始まる!
さて、キリスト教が広がる前の、ギリシャ時代などにおいては
「強いもの」=「よい」、「弱いもの」=わるい、
であり、身分対立がそのまま「よい」と「わるい」の対立でした。
弱肉強食の論理、強いもの=正義でした。
しかし、ここで弱きもの、仔羊たちのこそこそ話がはじまります!
仔羊どもが大きな猛禽に怨みをいだくのは、べつに怪しむにたりない。(中略)
仔羊どもが仲間うちで、
「この猛禽は悪い。だから猛禽とはできるだけ縁のないもの、むしろその反対物、
つまり仔羊こそが、ー善いといえるものではあるまいか?」
(前提書、「第一論文」の13)
さて、ここでついに第一論文のタイトルでもある、
「よいとわるい」から「善いと悪い」という価値の転換が始まります!
これこそが「道徳における奴隷一揆」!つまり仔羊たちの革命です!
それはルサンチマン、強者への怨みから生まれます!
道徳における奴隷一揆は、ルサンチマン(怨恨)そのものが創造的となり、価値を生みだすようになったときにはじめて起こる。
すなわちこれは、真の反応つまり行為による反応が拒まれているために、
もっぱら想像上の復讐によってだけその埋め合わせをつけるような者どものルサンチマンである。
(前提書、「第一論文」10)
ニーチェ節が遂に始まりました。
弱肉強食的な「よいとわるい」は、仔羊たちのルサンチマンによって「善と悪」に転換されます。
仔羊たちは行為(戦いによる反抗)ができないから、
想像上の復讐「本当は、俺達の方がすごいのだ」によってその「腹いせ」を行います。
実際に立ち向かうことはできないから、せめて弱者同士で群れあい、せめて頭の中で復讐をするのです!
なんと、この腹いせ、ルサンチマンこそが道徳的価値判断「善と悪」の起源である!と
ニーチェはこのようにして次々と「道徳」という「偽善」の裏に潜む人間の醜さを暴き出していきます。
さて、戦いの場を頭の中に移すことによって、奴隷一揆をし始めた仔羊たち。
彼らの開き直りは次第に大胆に、欺瞞的になっていきます。
「われわれは悪人とは別なものに、つまり善人になろうではないか!
そして善人というのは、およそ暴圧しない者、誰をも傷つけない者、攻撃しない者、(中略)
われわれと同じように忍耐づよい者、謙虚な者(中略)」ーこれは、冷静に先入見なしに聞いたにしても、もともと、
「われわれ弱者は、どうせ弱いんだ。われわれは自分の力の及ばないことは何一つしないのが、われわれの善いところなんだ」というだけのことにすぎない。それなのに、この苦々しい事態が、昆虫類(大きな危険に出会うと〈ですぎた〉ことをしないようにと上手に死んだふりをする)でさえもっている極めて低級なこの利口さが、(中略)
諦めのうちにじっと待っているという美徳の装いを身につけてしまったのだ。
まるでそれは、弱者の弱さそのもの(中略)が、一つの随意の所業、ある意欲され、選択されたもの、
一つの行為、一つの功業であるといったようなありさまだ。
(前提書、「第一論文」13)
ニーチェは道徳における奴隷一揆を行いはじめた弱者のルサンチマンを白日の下にひきずりだします。
現実の場、力では決して強者には及ばない弱者どもは、
戦いの舞台を頭の中に移します、「善と悪」という領域に移します。
そして「善悪」においては、あたかも自分たちが勝者であるかのようにえばり散らすのです。
昆虫類でさえもっている利口さにすぎないものに、「諦めのうちにじっと待っている」という
美徳の装いを身につけさせてしまうのです。
偽善製造工場の隊員と連絡を取り合い「偽善」を暴くニーチェ!
さぁ!ニーチェのボルテージも最高潮!
自ら論文と自称している本書ではありますが、
ここで何故かニーチェは『理想(偽善)が製造されている工房』に潜入させた隊員
と連絡を取り始め、自分の主張の正しさを実証(?)し始めます。
(この論文最大の笑いどころです。初読の人が間違いなく面食らうところです。
急にとんだ茶番が始まります、それもきっとニーチェは大真面目。
ここを笑えるかどうかが、ニーチェを好きになれるかどうかな気もします。笑)
ー「何も見えません、それだけによく聞こえます。(中略)どの声音にも、甘ったるい婉曲の味がねっとりついています。
弱さをごまかして功業に変えようというのでしょう、きっとそれに違いありません、
ー貴方の言われたとおりです。」ー
ーそれから!ー
ー「報復しない無力は〈善良さ〉に、びくついた卑劣さは〈謙虚〉に変えられ、
憎悪をいだく相手にたいする屈従は〈従順〉(中略)
それに〈復讐できない〉が〈復讐したくない〉の意味に(中略)
それにまた、〈敵にたいする愛〉についても話していますーしかも汗だくでやっています。」
ーそれから!ー(中略)
ー「地上の権勢家、支配者たちよりも、ただにより善いばかりではない、ーただにより善いばかりではなく、
〈より幸福〉でもあるんだ、いや、どのみちいつかはより幸福になるんだ、と。
が、もう結構!結構です!これ以上はもう我慢がなりません。わるい空気!わるい空気です!
理想が製造されるこの工房はー真赤な嘘だらけの悪臭でムンムンしているようなんです。」
ーいや!ちょっと待った!(中略)よく注意して見られるがよい!(中略)
ー「わかりました。もう一度よく聞いてみましょう(ああ!ああ!ああ!といって鼻をつまむ)。
彼らがもう何度も言ったことが、どうやらやっと聞こえます、
『われわれ善き者ーわれわれこそが正しい者だ』。
彼らが熱望するものを、彼らは報復とは呼ばずに
〈正義の勝利〉と呼びます。(中略)
ーもうよい!もう結構!
(前提書、「第一論文」14)
ト書きまで書かれていたり、自分で聞いておいて「もう結構!」と叫んだりと、ツッコミどころは満載ですが、
ニーチェは道徳の偽善性、すなわちルサンチマンに基づいた価値転換
の気持ち悪さに、狂ったようになっているのです。
これが「道徳における奴隷一揆」です。
弱者が開き直るというだけならまだよいですが、
弱者はそれにとどまらず、その開き直りを想像上の報復とは呼ばずに〈正義の勝利〉とまで錯覚していきます。
この「奴隷一揆」は大成功を納め、今や「道徳」という「正義」としてまかり通るまでになりました。
弱者たちのルサンチマンたる「道徳」〈謙虚〉〈従順〉〈復讐したくない〉が、
あたかも〈美徳〉であるかのように叫ばれます。
モテない男が、「俺は結婚できないんじゃない、しないんだ」というのと同じです。
「結婚できないこと」を、「結婚しないという選択を行った」のだとして、
モテない現実の場から、例えば「おれは仕事人間だ!」と言ったように、戦いの場を変えてみせるわけです。
「あいつらは女と遊んで時間を無駄にしているが、
おれは〈そんなくだらないこと〉はせずに、仕事でこんなに成功を収めた
〈より善いばかりかより幸福な〉人間だ」
といったところでしょうか。
こうした消極的な「奴隷たちの道徳」が、今や弱肉強食的な強者を、しばりつけるようになりました。
戦う場所を頭の中(観念)に移した弱者たちは、「善と悪」という価値転換を行うことに勝利を収め、
今や現実の場においても「あいつは悪者だ!」と叫べるようになったのです。
清々しい「正義」でなく、真赤なウソだらけなのが「道徳・善悪」
ここまで見てきたように、
「よいとわるい」という「支配者と下層者」との対立は、
仔羊たち、弱者のルサンチマンが爆発した「道徳上の奴隷一揆」によって
「善と悪」という対立へと転換、革命されました。
つまり「善と悪」とは、決して清々しい「正義」なのではなく、
ただ弱者たちがルサンチマンによって、自分たちの弱さや無力さ、卑劣さに「美徳」の装いを身に着けさせた、
「真赤な嘘だらけの悪臭でムンムン」したものだ!
そうニーチェは言いたいわけです。
「お前ら善人ぶってるやつら!そいつぁただのルサンチマンでっせ!」
ってなわけです。
これがニーチェが明らかにした第一の
1,善悪という「道徳的」価値判断はどのように生まれたのか
という問に対するニーチェの解答です。
「道徳なんて美徳じゃない、弱者のルサンチマンから生まれたものに過ぎない」
そうニーチェは言いたいわけです。
ここではニーチェ自身も、己の弱さに対してルサンチマン全開ではありますが、
この「ある価値判断がどのようにして生まれたかを問う」という系譜学の発想は、
疑わなければ絶対的にも見えてしまう「価値判断」を相対化し、
人間が作ったに過ぎない一つの「価値判断」から自由になる大きなきっかけともなります。
弱者をコケおろし、強者を賛美するニーチェにばかり影響されず、
自分はどう思うのか、どう感じるのかを忘れないことも大切です。
(ぼくはしっかりとニーチェに「毒されて」、一時期は弱者を見下し強者を崇めるルサンチマンの権化でした。
けれどもそれは結局、権威の先っちょを「道徳」から「超人」にすげ替えただけで、
自分自身で自分なりの価値判断を行う、価値創造者(本来の超人)とはかけ離れたものです。)
当ブログとぼくの活動についてはぜひこちらを御覧ください!
お読みいただきありがとうございました!
↓↓それなりに本格的に読みたい人は注釈・解説・索引が充実しているちくま学芸文庫のニーチェ全集がおすすめです。
↓↓哲学書を読むのが初めてなら、光文社古典新訳文庫が読みやすく、各節に小題がついているためおすすめです。
面白いですね。対話お望みですか? 私は楽しいことをする方向で生きています。
正しい方向じゃありません。 これは、斎藤一人サンの 教えを打てそう行動しています。
>https://syosetu.com/
>小説家になろう >千載納言 < です。
千載納言 さん
はじめまして、
コメントありがとうございます。
「正しい方向ではなく、楽しい方向」、
生きる上で大切な視点かもしれないですね!
ぼく自身は、否定するにしろ、肯定するにしろ、
根っからの「正しさ気になっちゃう」人間なのだろうと思います。
「正しさ」を探求することが、人生で一番見つめていることかもしれません。
ばさばさ