自分はなんてギゼンテキなんだろう…。嘘まみれなんだろう…
「結局、善い人ぶっていても全部、自分のためじゃないか。」
「自分には結局、悪しかないのではないか」
「あの人はなんであんなに、こころがきれいなのに、自分はこんなに汚いんだろう」そんな思いに日々苦しむ人もいることと思います。
偽善と自分の罪深さに悩む人のために、〈偽善潔癖症〉を抜け出して現実を生きるヒントを書いてみました。
ぼくの「生きねば活動」はぼくという人間のごく一部分の活動です。
さいきん、「自分の醜さ」や、「偽善」について悩んでいる方のお話を聞くことがありました。
その方は、ぼくの活動の位置づけを誤解されているようで、
「あなたみたいに、善へ向かって自分の心の悪と戦おうとされているのを見て、よけいに自分が嫌になります」とも仰っていました。
ぼくのSNSの発信をご覧になって頂いている方にまず注意して頂きたいのは、SNSやブログでのぼくの「発信」は「悩み苦しむ誰かのための発信」なわけで、ぼく自身のありのままの気分を吐き出しているわけではありません。
「生きねば活動」ですから、前向きなことを発信し続け、あなたが「生きねば…」と再び思えるようなきっかけの提供を意識しています。
ぼくも日々、落ち込むこと、悩み苦しむこと、悪意と快楽とに自分を委ねてしまうことがたくさんあります。しかし、それはほとんど発信していません。
ある面では、「海野つばさ(ばさばさ)」というキャラクターとして、「生身のぼく」の「前向きな人格」を切り取っているわけです。「生身のぼく」はそこにいないわけです。本当の意味での「つぶやき」は、自分自身(と神さま)に対してだけつぶやいています。
(かといって、もちろん嘘をついているつもりはありません。
「生きねば…」なんて思えない、そんなときはベッドに横になって音楽を聞いていたり、教会の椅子にただすわっていたり、喫茶店で人恋しさを紛らわしたり、海を眺めたり…と、普通に苦しんでいます。
そのときは自分のことで手がいっぱいなので、「生きねば活動」なんてとてもできません。
そんな日々の暮らしの中で、前向きでいられるととき、余裕のあるときに、ぼくは「生きねば活動」をしています。
ですから「ばさばささんはこころがきれいなのに、自分はなんて…」とは、どうか思わないでください。
「生きねば活動」をやっているぼく自身が、あなたの見えないところで、たくさん人を傷つけています。苦手な人にどうしてもそっけなくしてしまったり、欲望に駆られて人を道具にしたり…と。
この世に善人なんていません。
善いこともするし、悪いこともする、前向きだったり後ろ向きだったり、喜んだり悲しんだりする、様々な個人的な問題を抱えた、ひとりひとりの人間がいるだけだと思います。
ぼくもそんな不完全で歪できまぐれな人間の一人にすぎません。かなりヘンなところも多いと思うけど、あなたと変わらないまったく不完全な人間です。
そんな不完全な人間たち同士で、励ましあったりゆるしあったりして、生きていけたらなと思います。)
自分の心は、自分にしかわかりません。自分の心の醜さも、自分にばかり、見えてしまいます。
だから、他人のことは、きれいに見えてしまう。そして自分の醜さ・汚さを責めてしまう。それはある意味で自然なことかもしれません。
しかし、その意識があまりにも行き過ぎると、「偽善潔癖症」になってしまうと思います。(事実ぼくはそうでした。)
「偽善潔癖症」とは、「偽善」を恐れるあまり、自分のあらゆる行為や想いに対して、「これって偽善じゃないか?」と疑い、自分を責めてしまう病です。
「自分の行為・人生は善か悪か」をあまりに気にしすぎて、日常生活・人生に支障をきたしてくる場合、それはある種の「潔癖症」と言って良いのではないかと思います。
今回の記事では、そんな偽善潔癖症を抜け出すためのヒントをいくつか提示できればと思います。
「偽善か否か」を問うことの問題。「真の善」はわからない
「これは、偽善ではないか?」と自分に問い続けながら生きることは、ときに悪い習慣になりえます。
そして「偽善か否か」悩むことで手が一杯になってしまいます。偽善潔癖症です。
「偽善か否か」なんて、問わなくて、気にしなくて良いのかもしれないのに、
「これは偽善!あれも偽善!おれも世界も全てが偽善じゃないか!もうダメだ!」と、混乱し、その悩みにぐわんぐわんと振り回されて、離れられなくなってしまう。
(「生きる意味はあるのか」と問うことも、これと似ているかも知れません。
「生きる意味」に必死に悩んでいる時、人は「『生きる意味を問うこと』は正しいのか?」というもう一つ大きな問いを立てることには考えも及ばずに、「生きる意味」を探し続けます。
そもそも問い自体が間違っているのかもしれないとは、なかなか気づきません。(悩み抜いて悩み抜いて、その先で突如はっと悟る道もあるでしょう。))
話がすこしそれましたが、「これは、偽善ではないのか?」と問うことにはさまざまな問題があります。
まず「偽善」と言うとき、人は偽善ではない「真の善」を想定しています。
しかし、「これは真の善だ!」と、人は最終決着的に判断することができるのでしょうか。
人間は、一つの行為を無限に解釈することができます。
例えば、ある人がホームレス状態の方に、自分がお昼ごはんに食べるつもりだったパンをひとつあげたとします。
別のある人はその行為をみて、「彼はなんてすばらしい人だ!」と言い、また別のある人は「あとで誰かに自慢するためにやったんだろう」と言い、またある人は「あとでもっと美味しいパンでも買って食べるんだろう、大したことじゃない」と言うかもしれません。
誰かの行為だけでなく、自分自身の行為だとしても、同じように無限に解釈できます。
「自分はあの人を可哀想に想ってパンをあげたつもりでいたけど、やっぱりあのとき、ちらりと、あとで誰かに自慢することが頭をよぎった気がする…」とか、
「あのときは、自分に対してなにかやけくそな想いがあって、それでいろいろどうでもよくなって、パンをあげた面もあるな」とか、どんな風にでも考えることができます。
いくらでも解釈できるということは、決定的な「正解・真理」は永遠にわからない、「神のみぞ知る」ということです。
したがって「あれは偽善だったのではないか?」という問いは、永遠に解決されることのない問いであり、考えても考えても、仕方のない問いなのです。(反省として「役立てる」こともできますが、行き過ぎればそんな余裕はないでしょう。)
たとえ人がどれだけ「自分は善人でありたい!ピュアでありたい!」と思ったところで、「あなたは絶対的に善人です」と保証されることは永遠にありません。
「あのときのあの行い」は「善かったのか、悪かったのか」誰も決定することはできません。「善か悪か」とは、永遠に解決されない、永遠の問いであり続けるのです。
「偽善じゃなかった!」と、安心することは永遠にないのです。自分の判断を疑い続ける限り、疑いは止みません。
自分の「善悪」より、他人がどう感じるかに目を向けること
「この行為は偽善ではないか?」と思っているとき、人は目の前の他人の喜びや悲しみではなく「自分の心の潔白さ」に目を向けています。
「自分は善人でありたい」という「欲望」を相手にしているわけです。この意味では、そもそも「自分の行為の善悪を気にすること」自体が、自分の心のきれいさばかりに目を向けたわがままではないか、と言えます。
「心のきれいさ・真の善」ではなく、具体的な行為こそが、この現実の場に現れます。
内面のきれいさや純粋性を求めたところで、それが一体なんになるのでしょうか。それが一体誰を幸せにするでしょうか。
仮に純粋性が果たされたとしても、それで喜ぶのは自分ひとりだけでしょう。他の人からしたら、いたってどうでも良い話。いやむしろ、「私は純粋なのよ!」と語る人の話なんて、多くの人は聞きたくないと思います。
この現実の場において、人が人を喜ばせれば、それは善き行為であり、人が人を傷つければ、悪い行為でしょう。
「いやでも、実は自分は、自分のためにやったに過ぎないのです!」なんて言ったって、そんなことを気にするのは自分だけです。他人はいちいち人の心の奥底まで詮索しようとするでしょうか。そんな人はほっておけば良いと思います。
たしかに、自分の心を見てみればそこは混沌としていて、善も悪もごっちゃになって、何が正しいのやら、間違っているのやら、わからないでしょう。
しかし、そんな心の混沌、カオスなんて、どう自分が努力したって整理されない、永遠にカオスのままです。
自分が善人か悪人かなんて、わからないままです。考えても仕方がない。天に任せてしまえば良い。
そんなどうにもならないものに関わり合わずに、無視して、シンプルに、
「どうしたら自分は目の前の人は喜ばせられるか、癒せるだろうか」と考え、自分にできることをやればいいのではないでしょうか。
すこし厳しく言うならば、「自分が善か悪かなんて考えてる暇があったら、現実の限界の中で、自分にできることを一つでも多くやりましょう。
結局それしかないのです。この不完全でよくわからない現実を必死で生きるしかないのです。」とぼくは言いたいです。
「自分が偽善者ではないか」という問いは、人と人との関わりを「自分の心のきれいさ」という欲望の道具にしていると思います。
「自分が善き人」であるために他人に奉仕をするならば、それは他人・隣人を相手にしているようでいて、実は自分しか見ていない。他人を自分の心の清さの栄養・材料としてしか見ていない。
目の前の他者の苦しみが、実は見えていない。
自分の「こころの見栄え」しか見ていないのだと思います。それなら、部屋にこもってゲームでもやっていれば良い。
精一杯に己の人生を生きているもうひとりの人間を、自分のわがままに付き合わせちゃだめだと思います。
その人が自分よりも弱い立場で、困っているなら、なおさらです。
自分のエゴのために、弱い立場の人をダシにするのは、もういっこのいのちに対する侮辱です。(ぼくも日々そんな侮辱ばかりを繰り返してばかりいますが。)
「自分が何者か」なんて、目の前の相手を自分が本当に喜ばせられた・安心させられたと感じられているときには、どうでも良くなっていると思います。
そんな心持ちになれることなんて、この日々の生活においてはなかなかないことかもしれない、しかし、いずれにしても、自分のことを気にして立って仕方ない。
「偽善であろうがなかろうが」、他者の喜びは、その他者にとっては紛れもなく喜びです。
(キリスト教においては「律法主義」の問題になるのだと思います。
「神に認められるために、掟を守る」、その裏には「神に評価される自己」への執着と「神の憐れみ」への不信があります。
そこで隣人は律法を守るための手段でしかありません。
ルターが悟ったように、そこには神への愛すらもないのかもしれません。神からの「品質保証」を求める歪んだ自己愛に渦巻いています。
私たちの罪は、イエス・キリストの「あの犠牲」によって永遠に取り去られたはずです。
「あの出来事」を信じるならば、依然として罪にまみれている自分を超えて、なやみくるしむ隣人のもとへと、開かれていくべきです。
私たちの罪は、かみさまが私たちの後ろにつぎつぎ投げ捨ててくださるのですから、
私たちはただ前を向いて、「互いに愛し合う」べく、隣人のもとへ駆けてゆく以外にありません。)
自分に対する怒りも込めて、いつもの記事よりも少し鼻息が荒くなってしまいました。
ごめんなさい。
でも、「生きねば」という視点において、とても大切なテーマだと思いますから、悩み迷っている人の背中を強く押す気持ちで、はっきりと書きました。
「自分の苦しみに留まるのか、それとも他者の苦しみのために自分にできることをやろうとするのか」は、人生の大きな転換点なのだろうと思います。
ぼくも本当に反省するところであります。嘆いてばっか、偉そうなことを言ってばっかです。
ともあれ、なにかみなさんが「生きねば…」と思えるヒントになっていれば、幸いです。
(ぼくなんぞが紹介するのは気が引けてしまうほど、壮絶な「生きねば…」だったのだと思いますが、
ALSという難病にかかった川口武久さんという方は、マザー・テレサの
「あなたのそばに苦しんでいる人がいるのに、なぜ自分のことだけに集中してその人たちの存在に気が付かないのですか」という言葉に触れ、
自分に対して嘆くことから、同じ病の方たちのために活動するALS協会を立ち上げるまでの活動に立ち上がったそうです。
下にご紹介する『しんぼう』という本は未読で、戸田伊助さんの『うめき』という本でご紹介されていました。)
⇩ネルケ無方さんからコメントを頂けました。
この「偽善潔癖症」と表裏一体になっているのが、「オレはどうしようもない悪人(凡夫、人間)なんだ」という念の入った偽善(偽悪?)。僧侶にも決して少なくないタイプ。 https://t.co/flx6PJIZOX
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) March 7, 2020
日本人は(宗教においても、社会においても)偽善行為を極端に嫌う国民性を持っていると言えますが、偽善を嫌っているというより、より高度な偽善を楽しんで(?)いるとも言えます。「ぼくは偽善者じゃない」という偽善ゲーム。
— ネルケ無方 (@MuhoNoelke) March 7, 2020
下の2つの記事はキリスト教に深く関わる記事ですが、「偽善潔癖症」や自分の醜さの直視は、キリスト教の「罪のゆるし」と非常にマッチしていると思います。
キリスト教信仰は、自分の消し得ぬ罪とどう関わるかを描いています。ぜひご参考ください。
コメントを残す